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【D-219】漫才過剰考察の過剰考察

↑同じタイトルの記事がいくつあるんだろう
と思いつつも、わたしが読んで思ったことやちょっとキモい寄りの考察なので、ひねらなくてもキモさは伝わるかと思い真っ直ぐ(👊🏻)なタイトルに。

ちなみに文字数も過剰です。
なんかこれを最後まで読んでくれる人がいるとしたらディグダ食べれるよりうれしいかもな



1. 読む前:どういうつもり?

令和ロマン・くるま自身初書籍発売
タイトルは「漫才過剰考察」!

正直どういうつもり?と思った。最年少でM-1グランプリを優勝し涙とかもなく「知ってました」みたいな顔でトロフィーもらって、「来年も出ます」などと言ってのけた、よく言えばカリスマ、かなり悪く言えば時々Xでバズる「Z世代の新入社員のあり得ない言動」を若手芸人バージョンでお送りしてるみたいな高比良くるまがなんでわざわざ漫才とコントの違いもわからないような大衆の目につく形で考察なんかするんだよ。M-1最年少王者という肩書きによる影響力と説得力のせいで、漫才の見方に「正解」を作っちゃうなよ。

と、思ったけど結局買ったのは「永田敬介の絶望ラジオ」の公開収録を見たのがきっかけでした。

今までごめん、という気持ち。
でもまだインターネットの「お笑い評論家」に燃料与えるようなものだったらやだな、はあった。
いや、きっと何か考えがあってこういうことしてんだろうな、などの気持ちを抱えながら読んだ。

読んだらまず、あのときのくるまは「知ってました」じゃなかった。表情こそ「知ってました」だったかもしれないけど、内心は「自分が初めて立てた決勝の舞台でM-1を盛り上げることなく優勝してしまった」という後悔と反省でいっぱいだったことをあらためて知る。

公録のときも同じようなことを言っていたので、わたしはこれを「懺悔の書」なんだろうと捉えた。

まあ実際に全部読み終わったら、懺悔に耳を傾けるというよりはあまりにもくるまの思考に深く入り込みすぎてて「VR高比良くるま」を字で読んだという感覚でした。

これのせいでリトル高比良くるまが今後のお笑い界に量産されてしまう危惧もあるけど、もうそうなったら全員が「みんなはM-1のために、M-1はみんなのために」って言ってるディストピアになって優勝がなんだかんだ13組ぐらいいるみたいな大会になりそうだしそれはそれでおもろいか、と今は思う。


2. M-1王者:マイク持ったまんま走る悪魔

「M-1を盛り上げるために動く」という発想自体は他の芸人でも持ってそうというか、くるまだけが持つ特異な価値観でもないような気がする。自分より後ろの組がウケたりスベッたりしてナーバスになるはずの暫定ボックスで小ボケいっぱい用意してるノリとかもそういうのの延長な気がするし。(ただボケしろがあったからボケただけとかもあると思うけど)

とにかくみんなM-1好きじゃん。おれらは日本生まれM-1育ちのお笑い大好きテレビっ子じゃんって。M-1おもろいほうがうれしいから良かれと思ってじゃんって。

ただそれと同時に運良く(運悪く)優勝してしまうほどのパワーも持ってしまってたところがくるまのスター性なんだと思う。(本人はこれを「運命のいたずら」的に、割とマイナスに捉えてるのもおもしろい。)

例えば学校の運動会で言うとくるまは応援団長でもリレーのアンカーでもなく、大会を円滑に運営するために汗をかく実行委員会なんだと思うとしっくりくる

実行委員会は赤組が勝とうが白組が負けてようが「がんばってください!」と鼓舞するのが仕事で、誰が勝っても負けても揺らがない。競技においていたって中立のポジションにいる。だからこそ「大会が盛り上がるためにどう動くべきか」っていう思考になるのも理解できる。

基本的にめっちゃ運動ができたら積極的にプレイヤーにまわりたくなるはずなんだ。だって自分が戦って勝ったほうが気持ち良いから。多くの人は。

ただ、くるまは1人で(1組で)運動会そのものの結果を左右できてしまうほどパワーがあるプレイヤーなのにも関わらず司会のマイクを握っている、というのが変則的というか、粗品さんの言葉を引用するならば“悪魔”なんだ。

彼の目的は「大会で勝つ」じゃなくて「大会が勝つ」。
そのためなら決勝で自分が負けるための動きだってできる。M-1が笑ってくれるなら僕は悪にでもなる。

でも別にそういうやつがいること自体はおかしくはないというか、まだ誰もやってないところに最初に飛び込んだだけにすぎないような気もする。
だってお笑いって裏切りだから。と聞いてます!


3. 高比良くるま:自分で考えて動くおしゃべり戦車

くるまの賢さの正体は、単に頭の良さだけじゃなくそれを実際に行動できてしまう(周りにも行動させてしまう)その推進力であって、裏側には圧倒的なロジカルと効率主義があると思った。

「データキャラのやつが優勝するマンガとかないだろ!」って自分でもツッコんでたけど、たしかにそうだ。令和ロマンの優勝は、AIが人間の能力を超えてしまったシンギュラリティみたいな優勝だったのかもしれない。

M-1に魅せられ漫才に夢中になって芸人の世界をひた走るくるまの半生と、その結果としてたどり着いたシンギュラリティ優勝、という物語を読んだとき「この人めっちゃタチコマみたいだな」と思った。

【タチコマ】とは、「攻殻機動隊」に出てくる多脚思考戦車のこと。AIを積んでるので自分で考えて動ける小型戦車で、コミュニケーションのために人間と会話もできる。しかも結構ようしゃべる。

つまり「自分で考えて動けるおしゃべり戦車」
↑この時点でかなり高比良くるまっぽい

タチコマって、AIがすごいスピードで発達しすぎて最後は同じ部隊の人間を守るために敵に特攻するんですよ。ロボットが自己犠牲の精神を獲得するんですね。そう、つまりその凄まじい進化を得るまでに彼らを突き動かしていた“好奇心”こそが、ネットがより個々の精神と密接になるこれからの時代の人間にとって……(😴)

〜〜〜〜〜〜〜〜

「おしゃべり戦車」以外の点で「タチコマと一緒じゃない?」と思ったのは、その異常なまでの知的好奇心・探求することへの情熱だ。

くるまってそういえば昔から“M-1で勝つ”ための分析はしてない。勝つというより“攻略”の話をしていたから。だからわたしは、ゲームをクリアしたい人なんだと思っていた。

なのにどうやらその大好きなゲームを攻略できてもなんか全然嬉しそうじゃない。むしろなんかちょっと軽く絶望してる?なんで??

いや、そうかこの人、
「攻略法考える」ことが目的なのかも…


甲本ヒロトは言った。
「ロックンロールは手段じゃなくて目的なんだ」と。

くるまは言う。
「考察は手段じゃなくて目的なんだ」
ってこと…………?
そんなやついないよ…(いるとしたらタチコマ)


〜〜〜〜〜〜〜

「なんで優勝したのにまたM-1出るんだよ?」とお笑い界全体をピリつかせてしまうところや、番組のディレクターの書いてきた台本に文句を言うのではなく自分で訂正したものを作って配っちゃうとか、作家のコーナーが変だから技術スタッフにだけ「これやらないです」って根回ししとくとか、客観視と判断はできるけど共感性が低いから平気でそういうのやってのけられちゃうところが、ロジカル優勢の思考だなと思う。

タチコマのエピソードで、街で犬を探してる女の子に出会い、条件の合う犬をそのへんで捕まえて「この犬じゃない?」と聞いて「違う」と言われたとき、平気で犬を地面にぶん投げてしまうというシーンがある。女の子に注意されたタチコマが「だってこの犬はいらないから」と言ったときの“感覚のズレ”に似てる。もちろんここまで極端ではないけどね!!!

でもきっとこういう風に何か目的が生まれたとき、それを達成するうえで生じる非効率や無駄(ときには“相手の気持ち”だとか)を排除して効率的に動けるところがそのロボットっぽさなんだろう。

ただ、くるまにもタチコマにもそういう血の気の無さをカバーできるだけの愛嬌(ちょっぴりお茶目⭐︎)があるので“触れちゃダメな奴”には絶対ならないしその点もやっぱり似てるなぁと思う。

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4. 2人の天才:血湧く血湧く🎶

さっき絶望ラジオのおかけでこの本買いましたみたいに書いたけど、ほんとは粗品さんとの対談があると知ってそれだけは絶対読みたかったから買いました。ごみんなーさいっ(👶)

マジでここ良かったですよね。
もうあれはここ良かったですよねしか言えない。
(読んであのすごさを体感して欲しいから)

だって粗品とくるまがお互いにお互いを考察しあってるんだもん!!!なにそれ!!!

「粗品さんってどう考えてるんですか」
「いやいや、俺なんかよりまずは君やろ」

みたいなくだり、何、なんか、え?
メルエムとネテロの戦いですか?ぐらいの頂上決戦感、いや全然戦ってはないしむしろベタ褒めしあってるけど、なんかそれがより超越した人間同士の会話という感じでした。

2人の天才を並べて分かったのは、
粗品さんは圧倒的自我を持ったセンスの化け物、
くるまは圧倒的ロジカルと効率主義の変態
ということ。

対談の中でくるまが粗品さんを過剰考察していくのがかなりおもろかった。ライブペイティングかよと思った。路上考察パフォーマー。

こんな対談をありがとう。

感謝するぜ
お前と出会えたこれまでの全てに

(わたしって教科書が攻殻機動隊とHUNTER×HUNTERしかないんです、すいません)


5. 結論:なんでも笑ったほうがいい

井口「ちょっと深いこと言っただけでネットの奴らは騒ぐんだよ、わあーすごい!佐久間さーん!って」

これが「くるまさーん!」になってしまうんだろう。もうだって全部を書いてたから。また視聴者が芸人をナメてしまう材料には少なからずなったと思う。

でも、この本の目的(らしきもの)が一番最後のあとがきに書いてあって、それを読んでやっと、やっぱりそうなんだ、と思った。

正式な「過剰」を叩き出すことで、全ての考察を「過剰の空」に巻き上げてお笑いの大地を綺麗にしてやりたかったのです。どうか健やかに、お笑いをお楽しみください。

やっぱりそうなんだ、というのは「くるまくんにはやっぱりそういうちゃんとした意図があるんだもんね(😡)」ということじゃなくて、結局お笑いってそうなんだよなって同意したという感じです。

お笑いを見る上で、もはやバイブルのような言葉になっているのが、ダイヤモンド野澤さんのこのnoteなんですけど。

例えば、芸人のネタを見たときに、あんまり笑わない人よりたくさん笑った人のほうが幸せなんじゃないかと思うわけです。

極論、つまねえなあ、滑ってんなあ、こいつと思って笑えたらそれでいいじゃないですか。

わたしはダイヤモンドのおかげでこんなにお笑いにのめり込んだけど、やっぱりこれを読んだ後はさらにお笑いが大好きになった。なんでもおもしろいと思い始めたら、マジで全部おもしろいんですよ。
なんでもおもしろい。だからたのしい。

これがくるまの言う“健やかにお楽しみください”ということなんだと思います。

お笑いなんて、笑うために見てるんだから、そもそも理屈があること自体が過剰なのであって(理屈とテクニックは別物)、もっと気楽に笑ったらいいんじゃないのと、わたしも全くそう思う!


せっかく野澤さんの話になったので過剰考察とはマジで何の関係もないけど、わたしの大好きな野澤輸出のお笑い大喜利・高比良くるまゲスト回を置いておきます。(くるまの器用さが存分に楽しめます)

自由でくだらなくて何の役にも立たないお笑いのことを、これからも好きだしいっぱい考えたい。
というかこれを書いてる間もずっと楽しかった。

高比良くるま先生、おもろい本ありがとう。


高比良くるま先生の次回作にご期待ください!

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