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蕎麦とカレーと人情

眉毛サロンが終わってビルの11階から外を眺めると太陽は折り返しして帰り道に差し掛かった頃だった。横浜駅西口に向かって歩いている途中にGoogleマップで「和食」と調べて、AIのレコメンドからチェーン店を除いて探してみる。朝から何も食べてないのでお腹がぺこぺこだった。それに加えて今朝までバーのバイトで睡眠不足だったこともあり、胃は優しい食べ物を欲していた。ふと一件のレコメンドに目が止まる。ランチタイムがもうすぐ終わる時間だったその蕎麦屋は、ここから50メートルしか離れてなかった。地図が読めない僕は5分かけて50メートル先の蕎麦屋の看板を見つける。真っ直ぐ行けばいいだけだった。「池田屋」と一軒の古家の看板に書いてある。見つけた喜びからスマホのカメラを看板に向ける。その時、看板の下にある暖簾を分けて和帽子を被った男性が店の外に出てくる。明らかに店主!と思いあわててスマホを隠す。まだ営業中か尋ねたところやってるよと言われたので恐る恐る中へ入る。実はこの時、片方のコンタクトが外れてて何を見ようにもよく見えない状態だった。店内を舐めるように眺める俺を不思議そうに眺める店主。メニューが見つけられなかった。すると店主さんが「カレーとお蕎麦にするかい」と聞いてくれたので素直に了承する。値段も他のメニューもわからない状態で食べ物を頼むのは少し怖かったけど、それ以上の高揚感があった。セブンイレブンの緑茶を冷蔵庫から取り出して注いでくれる。明らかにコンビニのお茶の味がしなかったから、きっと水出しのティーパックだろうな。苦味がおいしい。続けてカレーライスが出てくる。入店から5分と経っていないのに。職人の技を見た。隠れカレー温め職人。かなり濃口で辛さはない、牛スジの塩気と野菜の甘みが交互にやってくる。続けてお蕎麦もやってくる。温かい出汁の効いたスープにわかめとネギ、とろろ。シンプルなトッピングだけど麺が歯応えがあっておいしい。食べている途中にふと気になったことを聞いてみる。

「ここは長いんですか?」 
「長いねえ、もう50年くらいかな」
「長い〜、お一人でですか?」
「夜はカミさんがやってるのよ」

初めて生で「カミさん」って言う人に会えた。
2人で50年年中無休で切り盛りしてきたそうだ。

「コロナの時はさすがに営業休止してたけどな」
「よく耐えましたね」
「ほんと大変だったよ」

こんな他愛もないやりとりが楽しい。落ち着くのは、建物の古さが生む木の香りなのか、それともこの店主の持つ雰囲気からだろうか。ふと気になって尋ねる。

「お子さんはいらっしゃるんですか?」
「ああ、倅が1人。今はテレビの会社で働いてるわ」
「あれま立派。てことはこのお店継ぐ人はいないんですか?」
「いねぇなぁ」

少し寂しそうな瞳で店内を見渡す店主。本当は失いたくないのだろう、それとも息子さんに継いで欲しいと願っているが言えずにいるのか。余計な詮索なのは分かっていたけど、考えてしまう。店主が地元の横浜で守り抜いてきた店を、今度は誰かが守っていってほしい。そんなことは今日初めて来た客が言うことじゃあないだろうから言えなかった。それでも、店主が繋いだこの街との繋がりが終わるのは悲しすぎるから、控えめに「無くならないで欲しいな」とだけ伝えた。気がつくと蕎麦も空っぽになってて出汁汁だけが器の中にあった。いつも言っている言葉に、いつもより気持ちが乗った。店主はその「ご馳走様でした」を、今日一の笑顔で返してくれた。この店主は、いつもこうやって、ワンコインの蕎麦とカレー以上の幸福感を振り撒いているんだろうな。「また来ます」は嘘にしたくなかったからこそ言った。また横浜に寄ったなら、行こうと思う。なによりも、人情が美味しい蕎麦屋だった。

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