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小説 コンタクトレンズ #3

 その時は突然訪れた。
 菜生と話をしてから一ヶ月ほど経った頃、私たちは付き合って半年記念に少し遠出しようかと話していた。切り出したのはしのくんだった。思いがけない提案に驚きつつ、悟られないようにはしゃいだ声を出した。当日までしのくんはどこで何を食べようか迷い、手の中のケータイ画面をなぞっていた。その様子を見て、私はまた気持ちに固く蓋をした。
 当日は快晴だった。旅行中の降水確率も0%。午後から雨だと十二時までには家に帰らないといけないので、ここ数日の天気予報を気にしていた私は心底ほっとした。お揃いのベージュのニューバランスを二人で左足から履き、開館に間に合うように家を出た。
 行き先は片道二時間ほどかかる海沿いの水族館にした。電車を乗り継いで目的地に向かう。
 移動中、電車の窓越しに似たような街並みが流れてゆく。車内に伝わる心地よい振動と、座席の暖房であたためられた足元と、その代わり映えない景色は、いつもより早起きした頭を気怠くさせるには充分だった。ふと瞼が重力に負けそうになった時、コンタクトレンズをつけていることを思い出した。慌てて頭を軽く振り、耐える。
 次の瞬間、急に視界が開き、目が眩んだ。
 海だ。
 遠くにあるはずの、水平線。冬の柔らかい水色の空と群青色の海を分ける境目が、光で溶けている。まだ空高くまで昇り切っていない太陽が、海面に燦々と陽射しを撒き散らしているのだ。波が寄せるたびその輝きは形を変え、夜空のすべての一等星だけを集めて海に放ったみたいに、忙しなく瞬く。目が痛くなるくらい眩しい。
 しばらく窓に張り付いていると、しのくんが「ん?」と声をかけてきた。私が指差す先に顔を動かす。わ、と息を漏らす。それから私にだけ届く声量で「綺麗だね」としのくんは呟いた。横から見たしのくんは陽を浴びて白い。その目に波のきらめきが映っていて、まばたきしたらこぼれそうだ。うん、綺麗、綺麗だね、と、海が建物に遮られて見えなくなるまで、私はしつこく言い続けた。

 到着して受付でチケットを購入し入場した。すぐにエスカレーターに乗り、ゆっくり降りてゆく。さっきまでの地上の明るさが徐々に離れてゆき、身が硬くなる。降り着いた館内は薄暗く、ぼんやり灯っているのは水槽と床に埋められた照明だけだった。点々と並ぶ水槽の前には、ぽつり、ぽつりと人が立っていて、その輪郭は青く照らされている。
 静かだった。足音さえカーペットに吸収されてしまうから、声を発することも躊躇う。海の底のような館内は、さっき電車の窓から見た景色とあまりに違いすぎて、まだ気持ちが追いついていない。まるで夜道に置き去りにされたみたいに心許なくなり、ふとしのくんの手を掴んだ。二人、進行方向を指す矢印を頼りにとぼとぼと歩いた。時々足を止め、カラフルな珊瑚や見たことのない柄の魚を眺め、水槽を撫でた。

 お手洗いに立ち寄った時、明るい照明にほっとした。溜まっていた息を吐き出すことで、新しい空気が体を巡る。手を洗いながら、思考がクリアになってゆくのを感じる。
 そろそろお昼だ。お昼ご飯は水族館から少し離れた海が見えるレストランでランチの予定だ。新鮮な海鮮のパスタやピザがメニューにあって、それを食べたら帰路につく。せっかくの遠出だけどもともと日帰りの予定だし、明日はゼミだから大学に行かなければならない。レポートはこの日のために仕上げてきた。しのくんもだろう。地元の駅に着いたら多分、最寄りのTSUTAYAによって見たかった映画がないか探す。映画が見つかり、もしネトフリで公開されてなければ、DVDを借りるだろう。今日見るかな。見たいけど、しのくんと一緒なら日付は越えられないし。見るならアイス食べたいけど、しのくんと一緒なら間食できないし。
 しのくんと一緒なら。
 自動センサーの蛇口から水が流れ続けている。手の泡はとっくに消えてしまっているというのに。
 後ろからトイレのドアが開く音がして、慌ててハンカチを取り出した。何を考えているのだ、私は。
 ここ最近、菜生と話してから時々、きつく蓋をしたはずの気持ちがドライアイスの白煙みたいに滲み出てくる。
 ——正しい恋愛っていうか。
 館内に戻る扉を開けた時、壁側のベンチにしのくんの姿はなかった。自分はここで待つと言っていたから、お手洗いに行っているとは考えにくいけれど。スマートフォンの画面には、何の通知も来ていない。
 お手洗いに続くスペースの向かい、廊下を挟んで広めの休憩場所がある。緩やかなステップを上がった先に、腰掛けるスツールが中央に固まっている。正面には館内の地図が、左の壁沿いには一人がけの椅子が並んでいる。座っている人の手に紙コップが握られていたから、右奥に自販機があるのだろうか。
 反対側に向かうのに、目の前を一組のカップルが通り過ぎた。私たちと同じ進路で館内を歩いているようだ。どちらかが冗談を言ったのか、前を向いたまま笑っている。笑い声の先を、つい目で追いかけてしまう。手を繋いでいない距離の近い二人の間に、猫背の背中がちらついた。
「あ」
 しのくんは廊下の真ん中に立っていた。たった一人、全身、水色に包まれている。
 先ほどのカップルが不思議そうに右により、しのくんを避けて足早に歩いていく。少しずつ歩み寄ってみる。気づいていない。
 そのエリアは、水中トンネルだった。足を踏み入れた途端、私の体も水色になった。右も、左も、魚たちが群れになって泳いでいく。見上げたら、外の世界の光が見えた。水槽の上だから、きっと人工的な照明だろう。
 すぐ隣に立っているのに、しのくんは動かない。ずっと斜め上、海の中を見つめている。
 声をかければいいのに、私は何も言わない。
 気付いているくせに、と責めたかった。それ以上に、あの場所で待っててほしかった。
 家に居ても、こんな遠くまで来ても、陸の上でも、水の中でも、同じ色に包まれても、私たちは二人ではなかった。あのカップルのように並んでいない。一体何を考えているのか、互いに伝え合うことがないのだ。行動、言動を起こす時に、どうしたって私はしのくんの顔色をうかがってしまう。しのくんは私のしたいこと知らない、知ったところでルールを破ってまで優先することはない。他人の心と自分の心を図り合う天秤があったとしたら、いつでも等しく釣り合うことはないだろうけど、ずっと一方に傾いている状況は思う。ねぇ、報われる日はいつくるの。
 私としのくんは、正しい恋愛はできない。楽しいことはわけあえても、辛いことを共有することができない。この人に、辛い想いをさせたくなかった。自分がどんなに傷ついても、傷つけることはできなかった。
 ——自分を殺してでも付き合うことはないからね。
 違う。私は、私を殺しきれなかったのだ。もうこれ以上、違和感を抱き続けて側にいられない。私は、夜更かしして映画を見たいし、朝起きて冷蔵庫にあるものを食べたい。好きな人と一緒に、帰り際に寄り道してアイスを買いたい。
 漏れ出ていたものが溢れ、蓋が一気に開いてしまった。でも、言葉はうまく出てこなくて、ただただ胸がつかえた。目の前の知った顔に、水面のゆらめきが映っている。どうしてだめなんだろう。変わってほしいと言えないんだろう。この人は、こっちを向いてくれないんだろう。
 少し前の、目に宿った光を思い出す。
 その目だけでいい、って、なんで私、思えないんだろう。
 欲望が溢れて止まらない。とても綺麗なこの場所を、埋め尽くしてしまいそうになる。
 かろうじて涙が落ちないように見上げていたら、天井の水槽がふるふると揺れた。
 ごめんね、と言葉が降ってきた。私にしか聞こえない声で。
 見上げた水槽の中を魚が横切っていく。不思議。こうしてると海の中にいるみたい。海の中で、人が息できるわけないのにね。
   私と異なる方法で息をしている生き物が、滲んだ視界の中をたくさん、たくさん泳いでいく。

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