恋愛観をaikoで語らせてください
以前、「趣味は何?」と聞かれた時に「本読んだりとかですかね」と相手の顔色を伺いながら答えると言った。
もし会話が続いて「どんな本読むの?」と聞かれたら、みんなどう答えているのだろう。本のジャンルだろうか。
それとも好きな作家、最近読んだ本のタイトルをあげるだろうか。
先日、まさにこの、手に汗握る(私はね)会話が繰り広げられた。
「どんな本読むの?」と聞かれた私。
うっわー会話繋がったわ、と焦って、なんて言ったと思う?
「あ、小説とかですかね」
以上。
お相手は「そうなんですねー」と笑顔で頷き、心の中で「詰んだ」と思う私。
あーあ。
文にすれば幾分か雄弁に語るのに、直接話せばこのざまだ。
ありがたいのか、いや、その時の私にはそうじゃないのか、相手はとても寛大な方だったので気を遣ってくださり、「他に好きなことはどんなことが?」と尋ねた。
うっわーどうしよう。
ひとつ頭をよぎった答えは、だめだ、と喉の奥に押し込んだ。
そして出た言葉は「映画鑑賞ですかね」。
相手は頷き、「そうなんですねー」とまた笑った。
はい。本日2度目のそうなんですね、いただきました。
こめかみに冷たい汗がたまった。
それに、自分で凍える。
あーあ。
それならさっき思いついた答えの方にするべきだったか。
家に帰り着いて食器を洗いながら思った。
でも、そしたら、それはそれで、語り尽くせないフラストレーションが邪魔して他人に理解できないことを口走る気がする。
あーあ。どうすれば良かったんだろ。
テレビの前の棚に飾っているCDジャケットに目をやる。
デビューから20年近く推している「彼女」の変わらない横顔。
ちなみに、ここでいう彼女は女性を指す3人称ではない。
「彼女」は、aikoのメジャー通算7枚目のオリジナルアルバム。
ええ、語り出したら語り尽くせない。
他人を置いてけぼりにする確率100%の、私が敬愛しているアーティスト。
それが、aikoである。
◇ ◇ ◇
前置き長い。
しかし、好きに語れるのがnoteの醍醐味なので許してほしい。
そもそも私は人と話すのがそんなに得意な方ではない。
どう思われるとか、こんな話退屈ではないかとか、わりかし考えて言葉を選ぶ。
選びすぎて、引き攣った愛想笑いしかできないときもある。
だけどそのくせ、実際のところは語りたいという面倒な性分。
自分が好きなもの、感動したことついては言葉が足りなくなるほど溢れる。
故に、気を許した相手や、SNS、人を目の前にしない不特定多数相手には、その言葉にならない感情を好き勝手ぶつけてフラストレーションを発散してしまう。
パートナーや家族、数少ない友人。
いや、本当にいつも付き合ってくれてありがとう。
話は戻るが、今回語り尽くせないほど好きなもののひとつである「aiko」について、noteでその魅力を語らせていただく。
あの時に語れなかったその想いをここに込める。
もし歌詞を見てご存じの曲があれば、脳内BGMを流しながらどうぞ。
「こんなに好きなんです 仕方ないんです」
その出逢いは20年前。
音楽番組で初めてaikoを見た。
母に読んでもらうんじゃなくて、自分で選書して読書し始めた頃。
文字を読むか簡単な計算をできるようになって、それを大人に褒められるのが嬉しい年頃。
その夜も歌番組のテロップを、流れてくるメロディにのせて読んでいた。
好きで涙。戻れない。眠れない夜。
aikoの歌詞は、私にとってどれも新しかった。
歌詞を追ううちに読むことを忘れて、いつの間にか食い入るように画面を見つめていた。
本や漫画を読んで想像する恋愛が、一曲の中に閉じ込められていた。
それはなんとなくわかるんだけど、正直、歌詞の解釈がまるっきりわからない。知らない言葉もある。
そして曲調はアップテンポで楽しいのに、それなのに、なんでだろう。
胸がきゅっとなる。
この感覚は、本を読んだ時に登場人物の苦労とか、努力とか、想いとか、それが報われなかった時に沸き起こる、それと似ている。
言いようのない、形のない、どこにもぶつけられないそれは、静かに沸々と体の内側から湧き上がって強い力で臓器を締め付ける。
のちにそれを、切ない、と呼ぶのだと知った。
私は切なさを、どの物語でもなくaikoの歌詞で覚えた。
そして同時に音楽にのると言葉は、こんなに豊かになるのかと体感したのだ。
CDを買うお金はなかったから、aikoの歌詞をインターネットで調べたり、ラジオをカセットテープに録音して何度も聞いて書き起こしたりした。(同年代は共感していただけるのではなかろうか)
そして、また新しい発見をした。
「好き」という気持ちを表現する言葉や方法が、この世には自分が知るよりもはるか無限にあるらしい。
それはまだ10年ほどしか生きていない人間の経験値からすれば当然のことだが、その発見は私の世界を急速に広げた。まさに、扉を開けたと言っても過言ではない。
夏。右腕。天使。つま先。星座。
これまで気にも留めたことのない単語たちがaikoの手で並べられると、とても色鮮やかに見えた。単体での意味ですら、歌声にのると特別に響いた。
aikoのさまざまな「好き」の表現に取り憑かれていく。
この人、引き出しどれほどあるの。
果てしない。
一気に、aikoの生み出す音楽と詩に魅了された幼い私。
まだ見ぬ恋を空想し憧れる夢見がちなめでたい頭のまま、やがて思春期を迎える。
「後ろに立ってる観覧車に本当は乗りたかった」
さて、遡ること10年前。いや、もう少し前。
若かりし私は、ようやく恋をした。
憧れていたそれは、想像していたよりもずっとキラキラと甘くて、ずっとずっとずーっと痛かった。
思い返せば、恋愛って本当に自分を見失うというか、まだ見ぬ自分に気付かされるというか。
大好きなものはいくらでも語れるし、たくさんの人にその魅力を知ってもらいたいと思うのに、大好きな人になると途端に話が変わるのは何故だろう。
しかしながら、恋愛に関してはこのご時世、それこそ多様性に溢れているし、個人差があるので一概には言えないのだが、叶わぬ片想いのために明日を呪ったり、地球上の自分にだけ隕石が落ちてきたような失恋の経験、心当たりがある方もいるのではないだろうか。
そこまでなくても、好きになって浮ついたり、好きじゃなくなって悲しくなったり。
私は文字通り、何度かそれ、恋に溺れたことがある。
人のことはわからないけど「あなたのことが大切だよ」というあたたかなラブソングと同じくらい、後悔を引きずっていたり無理矢理でも前を向く別れの歌がたくさんある。
それはある程度のダウンロード数を占めていて、どの時代でもそれだけ需要があるということは、恋に思い悩む経験がある人は一定多数はいるというとこだ。
正直、自分のことを話すと、そういった経験を覚えているうちに形にしたい気がして、小説を書いてみたりしている。
壮大な物語は思いつかないけど、身近な「あぁその気持ちわかる…」とぎゅうっとなるような感情を私なりに拾い上げていきたい。烏滸がましいが。
aikoも2021年の暮れに結婚したことを発表した。
それでも、というのは語弊があるが、テレビ番組のコメントでaikoは「いくつになっても恋愛の歌を書く、一番興味があって面白いから」と語っていた。
わかるような気がする。
もう二度とその海の中を泳ぎたいとは思わないが、恋愛ってドラマで見ても想像しても思い出しても魅力的で、何度でも焦がれることができる。
人間の感情の中で、正解を選べない感情のひとつだと思う。
正解を知っていても選べないことがある。
不思議な感情。
それに陥った学生時代。
あの頃は誰といる時もいつも恋愛の話をしていたのに、本当に自分の気持ちをわかる人なんていない、なんて一丁前に線を引いていた。
やっと他人が届かないところまで行って、ひとり手の中に収まる小さな機械を操作すれば流れ出す音楽。イヤホンで蓋をして自分の体だけに閉じ込める。擦り切れるほど聞いている歌声が耳元で囁く。
好きで嫌い。切ない。目で追う背中。
どうして分かるんだろう。
言いようのない気持ちをこれほどまでに代弁してくれるのだろう。
儚いパステルカラーみたいな色じゃない、ねっとりとべたついた、胸の中で渦巻く恋心なのに。
恋に憧れていた子どもの頃の私が、今恋をしている私を見たら、きっと幻滅する。
恐ろしいくらい簡単に人の不幸を願っている私がいる。
僅かに残る理性を振り絞って殴らずにいた私がいる。
執着して盲目で寄生虫のように依存している私がいる。
夜、硬い床に寝転び泣き続ける情けない私がいる。
おかげさまで、初めてみる美しい景色にも出逢えたけど。
人はどこまでも落ちていけるというけれど、そこに足がつかなくてもある程度の深さまでいったら浮上すると思う。
そしてまた沈んだりするが、そうやって繰り返し落ちてからじゃないと見えなかった景色が思いの外美しかったりする。
たとえば、外で見る月と、水面に映る月と、水底から見上げる月。
どれもそれぞれ心を打つ角度は違う。
あなたは一体どれだけ出逢ってきただろうか。
別に、経験しなくていい、打たれなくていい角度もある。
知らなくていい感情なんて山ほどあって、知ってるから偉いとかじゃないの。
わざわざ水の底に落ちなくてもいいんだよ。
でもね、もし落ちてしまったらそれはそれでいい。
なにも間違っちゃいない。
間違ったと思っても、生まれた感情に何の罪もない。
ただ月の美しさを、新しい角度から見ただけなんだよ。
aikoがそう歌う。
私のどこまでも汚い感情を掬い取って、肯定してくれているような思いで聞く。
特にそう歌っている気がする箇所は、曲を途中でも巻き戻して、何度も同じところを聞く。
夢中。5分。背中越し。あの子。観覧車。
歌詞の中の言葉が、本当は5分じゃなくても、乗りたかったのが観覧車じゃなくても、自分でも訳がわからないくらいに強烈に実感した。
ヒリヒリするくらい胸が焼けた。
「好きだって愛しいなって思ってくれたかな?」
そして、今。
数えるほどしか好きになった人はいないけど、数えられないほどの感情を覚えてきた。
それでもまだ見たことのない自分はきっといるんだろう。
そんなわけで、通り過ぎていった恋のそばには、必ずaikoの歌があった。
aikoがaikoが!というわりに、ただの自分の恋愛に関する価値観みたいなものをただ語ったようで何だか申し訳ない。
きっとあなたには、あなたの恋愛に寄り添う歌、もしくは作品があるだろう。
私は、私の恋愛のすべてがaikoの歌で語れるほど、いや他の人の恋愛にも勝手に当てはめることができるほど(はた迷惑)に、好きなんだということを豪語させてもらいたかったというだけ。
お付き合いしてくださって本当に感謝。
私の恋愛はすべてaikoの歌で語れるが、aikoへの敬愛はとてもじゃないけど語り尽くせない。
今回はところどころ歌詞の一部をタイトルとして抜粋したが、到底、歌詞以外もその魅力は計り知れないのでここでは割愛する。
新しい曲が出続けても、改めて過去の曲を聞いても、思う。
ああ、今日も、あの時の私を救いにきてくれた。
好きで距離。忘れない。懐かしい温度。
今はもう良くも悪くもその呪縛から放たれたから、懐かしさが勝つ。
だけど、日々の責任を背負い、感情をあの頃よりもやり過ごすことは上手くなったけれど、時折ふとしたことをきっかけに迫り上がってくる。
どうしようもない感情。
電話。秒針。バニラ。抵抗。忘れる準備。
これもまた、彼女が代わりに歌ってくれている。
恋愛の正解も不正解も
この記事の中盤で、恋愛は正解を選べない感情のひとつ、と言った。
それはつまり、恋愛には正解と不正解がちゃんとあると、私は思っている。
相性とかタイミングとか価値観とか、素直に伝えたほうがいい気持ちとか、知らないままでいい過去とか。
勇気を出した台詞が、あるいは何気ない一言が、一瞬で未来を左右したり、時間が経ってようやく答えが見えたりする。
もしそれが悪い結果になっても、それも経験といえば、学びになったとすれば、いい想い出として閉じ込めてしまえる。
でも、経験しなくてよかったことだって、言わなくてよかった言葉だって、見なくてよかった景色だって、絶対にあったはず。
私は普段から、不正解を丸め込むのが得意で、傷つけたことも傷ついたことも仕方ないとすぐに見ないふりしてしまう。
時間が経てば尚更、古い写真みたいなフィルターをかければ、大抵のことはいい感じになるから。
でも、aikoの曲を聞いていると、かけたはずのフィルターが剥がれる。
その時の、瑞々しくて痛々しい想いが鮮明によみがえる。
本当に誰も気づいていないくらいの些細な感情すらも丁寧に掬った歌詞の中で、まだ怪我したままの自分を見つける。
二度と味わうことのない幸せな夜も
嫉妬に満ちたため息も 涙の暴力も
いっぱいだったあの頃。
曖昧に見逃していた私が、居る。
本当は正しかったこともそうじゃなかったことも全部、シャッターを切ったすぐの写真のままの、必死で不細工な行為やドロドロの感情を、大切にしてやらないといけない。
それがどんなに駄目な行為でも。人に言えない想いでも。現実として見たくなくても。
塗り替えなくていい。
彼女の歌を聞くたびに、何故かそんな気持ちになります。
今更怯えて、過去をカッコつける必要はない。
不正解も、私で、あなただ。
恋愛なんて、
強がる姿がカッコ悪くて
必死な姿がダサくて
人にも自分にも嘘吐いて惨めで
毎分毎秒不安で仕方なくて
泣きたいのに笑えて
それが本当に貴いものだと
そう歌ってくれている気がするのです。