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短編小説 幸せの証明
深夜、駅から少し離れた正面に公園があるコンビニの、左から数えて2番目の駐車場の車止めブロックでいつも待ち合わせた。別にそう決めたわけじゃない。だけど、何度か数奇な時間帯に顔を合わせていたら、不思議と待ち侘びている自分がいた。
きっかけはある夜、煙草の火を点けて顔を上げた時、和羅がコンビニに入った。その名前はのちに知ることになるが、煙草をちょうど吸い終わる頃にまだ名を知らない和羅という女が出てきた。煙草の吸い始めと吸い終わりは自分の内側より外側の景色がよく見える。だから、吸い始めと吸い終わりに視界を横切った和羅が印象に残った。
着ているスーツは上品で綺麗な色をしていたので、夜の仕事じゃないだろう。目を突くコンビニの白い光に照らされてもシワ一つよってない服の上にのっている顔は整っているように見えたが、一度盗み見た時に恐ろしいほどの濃いクマを浮かべていて、それはその顔の年齢層をぐんと上げていた。手に下げたレジ袋はビニールが細くなるほど重そうで、酒か栄養ドリンクが入っているようだ。その姿を見る毎日が続くと、嫌でも覚えた。数日で心配になり、数週間経つ頃には心の中で小さくエールを送るようになった。
生きるの、しんどいよな。真面目だと尚更。
高い位置で結んだ髪がゆらゆら闇に消えていく。見えなくなったら立ち上がり、短くなった煙草を消して朝が来る前に帰路に着く。明るくなってきた空を少し眺めてベッドに横になる。目を閉じた時、あの後ろ姿が浮かぶ。なぜか家で吸わなくても眠れる日が増えた。
「煙草って、美味しいですか」
いつものように店前の喫煙ブースのブロックに腰掛けて吸っていた。今日も和羅の遠ざかる背中を見送って、あと数本吸って帰るはずだった。和羅の目が俺をはっきり捉え、俺に向かって話しかけている。こんな時間なのにその声は強く子どもを叱る教師のように尖っていて、まるでいけないことをしている気になる。残念ながら、そう言われて素直にやめるように育ってこなかった。
「吸ったこと、ないんですか?」
間近で見ると、そっちの方が子どもみたいな顔をしていた。ふっくらとした頬に形のいい唇。それなのに、意志の強そうな大きな瞳の下は、やはり青白く窪んでいる。ないです、と答えた表情は死人のように色がなかった。
「いつも吸っているから、こんな夜更けに。なんでだろうって」
和羅が隣のブロックに座り、足をのばす。細い。人のこと言えないけど、ちゃんと食べているんだろうか。
「なんでだろう」
「こっちが聞いてるんだけど」
大きく煙を吸って、吐く。白はあっという間に空気に溶け込む。こんな風になれたらと思う。煙が体に巡ると指先から血液の流れが悪くなって、じきにきゅうっと頭の芯が冷たくなる。そうなると、この寒さと皮膚の下にある真皮とか臓器まで温度が一体になって、身体ごと夜に溶けていけるような感覚になる。特に冬はそれが本当にできそうな気がする。
黙ったまま横目に、和羅が筋張った両手を合わせて擦り、息を吹きかける様子を見た。その周りだけ生まれた熱で一瞬ふわりと白くなる。わかりやすく温まろうとしている姿に勝手に白けてしまった。
想像の中での彼女がはっきりとした輪郭を持って目の前にいる。声を出し、体温があり、スーツに皺を寄せて座っている。それは至極当然のことだが、願わくば他人のままでいたかった。普通の人間だと知ってしまったら、エールの意味もなんだか変わる。テレビの向こうの自分と同じ出身地のスポーツ選手に話しかけている意識に似ていた。一方的に抱いていた同志のような感覚が急速に薄れていく。大したものを入れてないけど、閉まっていた宝箱を断りもなく開けられたような気持ち。諦めて、また煙を吸う。
不意に隣から缶のプルタブを開ける軽快な音がした。
視線をやると、和羅はハイボールの500ml缶に口をつけ、ぐっとのけ反り喉を動かしていた。女でもこんなに喉が鳴るんだな、と感心する飲みっぷりだった。
はあーっと息をつき、ずずっと鼻を啜った。赤くなった鼻で、幼さが増した。
横顔のまま、和羅は話し始めた。
「あなたを見ていると励まされることがあって。最初はまたいる、怖い、って思ってたけど、あんまり毎日だから慣れた。黒い作業着のお兄さん、またいるかなって思うようになった」
腕をあげ、前方を指差す。
「私ね、ここでお酒買ってそこの公園のベンチで飲んでから帰るの。次の日も朝から仕事なのに、すごいでしょ。でもあなたを認識してから、まぁこの季節になってから寒いのもあるけど、一缶までって決めてからそれが続いてる」
和羅が缶に口をつけて話が途切れるタイミングで、煙草を灰皿に押し付けた。指に力を入れているはずなのに、全神経が左隣に向けられている。また勢いのいい飲みっぷりの後、もうすぐ職場が変わるのだ、と濡れた唇が動いた。
「だから、聞いてみたくて。あなたがこんな夜にここで煙草を吸う理由。わかったら私のこの、ハイボールにも似てんのかなとか思ったりして」
そこで初めて、後ろ姿とか、見上げた顔とか、伸ばした足とかじゃなくて、真横にいる和羅の全貌を視界に入れた。コンビニの無機質な光を背負っていた姿は、想像した彼女よりもずっと人間で、街で見かける女性と何も変わらなくて、それでいて普通じゃなかった。空になった缶を振る、次を飲もうか迷い、レジ袋に手をいれる。こんな時間に、一人で、そんなことをしているのは、寂しい人間しかいない。
新しい煙草に火を点す。肺が許す限り煙を吸い込み、暗い空に向かって長く吐いた。和羅の目がそれをずっと見ている。
「今の、どっちだと思う?」
「どうゆうこと?」
立ち上がって灰を落とす。情けなく膝が鳴る。和羅も立ち、飲み終わった缶を軽く潰し、ゴミ箱に入れる。
「冬だとさ、煙草の煙か、ただの息か、わからんのですよ」
言いながら吐き出した二酸化炭素、それには一ミリも煙が混じっていないと証明はできないけど。
「どっちか当ててみてくださいよ。そしたら教える」
「煙草の理由?」
いくらだってズルできるクイズを和羅はやってもいいよ、とのった。何度か吐いた白に煙草、息、と答えていく。短くなった煙草をぎりぎり咥えた時にすぐ煙草、と言われたから、まだ吐いてねーよ、と突っ込んだら、和羅がきゃはっと声をあげた。その高い声は本当に少女のようで、俺の時間も巻き戻ったみたいに笑った。
世界から弾かれた気でいる一人と一人が偶然にも互いを支え合っていたことを知っているのは、俺だけだ。その偶然にどうしようもなく運命を感じて、舞い上がった俺は汽車のように煙を吐き続けた。この問いを当てられたら、言おう。俺もエールを送っていた。あなたの姿を見て、暗い目の下を見て、毎日毎日。あなたに。時に、自分に。当てられたら、それを言おう。
沈んだ公園の木々の隙間が朝の水色に染まるまで、不毛でおかしな問いは無邪気に続いた。
◇ ◇ ◇
ベランダに出た時、冬が頬を殴った。その冷たさに、和羅と初めて話した夜を思い出した。
煙を部屋に持ち込みたくないから、決まってベランダで吸う。この部屋から見えるのは住宅街やビルばかりだから、夜になっても割と明るい。だけど、街灯や目にする家の明かりがいくら煌々としても、手元の白い紙に包まれた葉先の橙が一番目を焼く。それをゆっくりと口元に近づけ、咥え、最初は息を吸うのと同じように浅く吸う。それから口を離し、鼻から空気を入れて、止める。そして一気に吐く。ため息と吐くように、肩から全部出し切る。
次は深呼吸しようとした時、ベランダの鍵が開けられた。
「渉さん、冷蔵庫のビール飲んでいいですか」
皆越が無遠慮に話しかけてくる。その手にはすでにビール缶が握られ、温かい場所に持ってこられて間もないからか、指を避けた場所がほんのり曇っている。いいよ、と伝え、窓を閉めるように右手をひらひらと動かす。皆越は裸足のままベランダに出て、隣で缶を開ける。
「さっみーすね。このままだと年越すのまであっという間っすね」
年老いたことを言って寒い寒いと冷たいビールに口をつけ、薄いニットの上から腕をさする。
「おまえ、くる時に上着着てたろ。外出るなら持ってこいよ」
「いやっすよ、煙草の匂いつくの。渉さんは寒くないんすか?」
「寒いけど、おまえとは鍛え方が違う」
「現場はやっぱり違いますね~」
と強がってみるが、髪を揺らす北風に、よれたロンTの下は鳥肌が立った。皆越は営業の若手の中では口が立つ奴で成績は上々だ。尚且つ現場目線も忘れず、契約者と一線で働く職人の間で必ず生まれる溝を埋めようと配慮してくれる。先日も新規でオープンカフェを手がける際に、先方が希望した水道の位置が変更になったことを別の営業から聞かされておらず、作り終えた後に契約者が散々現場に文句を垂れるものだから、営業担当をぶちのめそうと会社に乗り込んだら間に皆越が入った。「自分が先方と話をします」と出て、帰ってきたら本当に契約者を丸め込み、挙げ句の果て「やっぱりこっちに水道があるの利点な気がします」まで言わせたから感心した。もちろん金額は当初の通りとはいかなかったが、クレームとして上がらなかっただけ有り難い。俺も振りあげた拳を営業に落とさずにいれたことで、現場の威厳は保たれた。皆越は以来、現場でも一目置かれ、差し入れを持ってきた時のヘラヘラと軽い態度で上から弄られ、可愛がられるようになった。ある時に「都築さーん、甘いもの持ってきました。これで会社に殴り込まないでくださいっ」と言われた日には現場が大いに盛り上がり、俺も苦笑いするしかなかった。会社の人間を交えて何度か飲みに行くうちに、誰にでも人懐こい姿が憎めなくなり、下の名前で呼ばれるのもすぐ慣れた。
まさか家にあげるまでと思わなかったが。どうも先日大きな契約を結び、今日その手柄に祝杯をあげていたらしいが飲み足りなかったらしい。LINEがきた時にたまたま家にいたし、用事もないので好きに使っていいと返事をした。
「家帰ったら彼女がいて好きに飲めないですよね。仕事朝早いから寝てるし、起こしたくないし」
言いながら缶を煽る。あっという間に飲み終えたようだ。
「優しいんだな」
「まぁ、そうゆうのって伝わんないですけどね。本当なら早く帰って一緒に飯食べる方がいいでしょうけど」
そう言って、冷蔵庫に酒をとりに部屋に戻った。あいつも色々考えているんだな、と思い、また吸う。
視線を落とすと、街灯に照らされて行き交う人が少なくなってきた気がする。見渡せば、家の明かりもだいぶ減ってきた。いい時間になったのだろう。人型の哺乳類の多くが眠りにつく時間。静かになる。夜がもっと深くなれば、月明かりに自分の影だけが濃くなって、自分の息遣いだけが煩くなる。月が雲に隠れて、鼻で息をすれば、その影も音もなくなる。だけど、自分という存在は消えるわけではない。人知れずひっそりと佇んでいるだけで、世界には参加している。煙に任せて白を吐けばなお、存在をこの世に強調しようと足掻いているみたいで、それを誰かに見つけてもらいたいみたいで、情けない。もうすぐ地球に光が届かなくなる死んだ星みたいだ。光っても、誰の目にも止まらない。それなら消えたいのに、でも見つけてほしい。矛盾した気持ちを抱えて今日まで死なずに、なんとなく生きながらえている。
――渉くんは、たぶん幸せになれないよ。私と同じように。
和羅はよくそう言った。特に夜、し終わった後、ベッドに横たわって、ねぇ煙草吸って、とねだった。部屋じゃ吸わないと言うと、渉くんが幸せになれない象徴なのに、と不貞腐れた。なんだそれ。だって、とそのままキスをされる。そして笑う。こんなに不味いものに縋っているうちは幸せになれないと言う。時々訳のわからない理屈を和羅は滔々としゃべった。大抵それは、眠くなった合図だ。
「渉さんの彼女さん、今日帰ってこないんですか」
気付いたら皆越が側に立って新しい酒に手を出していた。またビールだ。「腹膨れないの」と聞くと、ツヤッとした笑顔で「膨れません」と返された。暗闇で懐中電灯の光を目に向けられたくらい眩しい。怯んで返事が遅れた。
「確か年上でしたよね。仕事、忙しんすか」
こいつにどこまで何を話したか覚えていない。確か以前に家で飲んだ時に一方的に同棲している彼女の話をされ、泥酔しているところに「そういう渉さんの彼女はどうなんですか!」と騒がれ、どうせ記憶ないだろうと少し話した。滅多に和羅の話をすることはなかったが、言葉にするというのは大事で、いかに自分が和羅を好きなのか、小っ恥ずかしくも改めて認識した貴重な機会だった。
「ああ、遅くなると思う」
煙草の火を消して、新しいものを取り出す。それにまた、火を点ける。いつものように、ゆっくりとした動作で。布の擦れる音だけがする。その間、どこかの家の明かりがまた消えた。その分、夜が増す。皆越はずっと景色の一点を見つめていた。手にした缶は、まだ開けていない。
「渉さん」
「ん」
新しい煙草は目一杯吸って、肺を満たす。2秒ほど息を止めると脳まで煙が届く。ふうっと長く吐いたら、皮膚の下に流れる血の温もりが消えて、体がこの瞬間だけ冷たく空っぽになる。
「渉さん、彼女さん」
「なんだよ」
皆越がふざけた調子じゃなくて、いつになく真剣な声をしている。きっとその表情も硬く強張っているだろう。見ないふりをする。
「彼女さん」
「飲めよ、皆越」
皆越は缶を開けない。
「やめといた方がいいっすよ」
灰を落とす。前屈みだった体の向きを変える。
部屋のテーブルには皆越が広げたつまみと、空になった缶。他は自分が暮らすための家具と、和羅が選んだ大きな姿見と、和羅が持ち込んだインテリア関連の本がテレビ台の横に積まれて、奥の台所には和羅が選んだマグカップと赤いケトル。欠片がある。和羅の欠片。どこを見ても散らばっているのに、肝心の本体はどこにもない。
「渉さん前に言ってましたよね。彼女さん、渉さんの家に来るけど向こうの家に行ったことはないって。家に連日泊まることない、写真も二人では撮らないって」
皆越が缶を握りしめる。手から滑り落ちて事故になったら危ないので、回収しようと手を伸ばす。皆越が気づき、缶を開けてこっちによこす。
「やめましょう。相手にも渉さんにもいいことないっすよ」
これを受け取ったら皆越が楽になればいいのに、と思って缶を受け取った。「ありがとな」と言うと皆越も体の向きを変え、ため息をつきながらその場に座り込んだ。くぐもった熱の塊は白く残って、あっという間に空気の冷たさに負けた。
「おまえさ、意外とちゃんとしてるよな。そういうところ」
「いや、他人だったらどうでもいいけど、職場の世話になってる先輩がそんな感じだと見てらんないとこあるっていうか」
「だから、そういうところだよ。まともじゃん。優しいじゃん」
なんなんすかぁっと項垂れる姿に頬が緩んだ。顔の筋肉、まだ動く。煙草と外気で温度をなくした体はそれでも鼓動して、温かい血液を運ぶ。皆越の言葉の端々に滲む感情が、心をあたたかくしていくのが分かる。
和羅と初めて話した日から、誰かのものだということは知っていた。空き缶を潰す手に光るそれをその時はなんとも思わなかった。ただ、家で冷えた体を互いに求め合った後に、少しずつ、じりじりと罪悪感が胸を焦がしていった。
会わない方がいい。罪悪感に押し潰れそうになった時、思わず口走った。和羅には帰る場所がある。こんな危ない橋を渡るよりも、安全な場所で正しく生きてほしい。元気で。酒もほどほどに、体を壊さない程度に。確か、和羅がちょうど家を出ようとして、それを引き止めたくてたまらなくて、なくなるなら最初からない方がマシだ、と行き着いた思考から出た言葉だった。辺りを焼き尽くす業火のように、西陽が部屋を赤く染めていた。和羅はしばらく黙って、やがてぽつりと漏らした。
「渉くんにとって、安全な場所は、どこ」
あの夜、空の缶をふった和羅と同じだった。コンビニの光ではなくて、真っ赤な陽射しが塗られたその顔は訴えていた。途端、放った言葉をかき集めて葬りたい、と強く思った。やり場のない後悔は目の前の和羅にぶつけるしかなかった。骨が折れるほど抱きしめてごめんごめんごめんと繰り返した。安全な場所なんて最初からあれば、俺たちはあんな場所で出逢うことはなかった。赤い部屋が少しずつ黒くなる。ここだけは、地獄であってはならない。和羅は枝のような腕を持ち上げて、謝り続ける俺の頭をあやすように掻いた。
俺たちは会い続けた。でも最初に会った頃ように和羅の酒は一本で済むことはなく、俺の煙草も簡単に一箱なくなってしまう。
そんな日々の中で、いつか「煙になって消えたい時がある」と呟いたら、俺の腕に長い髪を預けた和羅が「煙草の理由?」と首を傾げ、少しして、分かる、と言った。それから「私もアルコールみたいに気化する」と話し出して声を出して笑った。そして眠りにつくまで「渉くんの煙と違ってアルコールは白く残らなくて、じわじわ空気になるから見えないよ」とか「空気になってしまえば空気読まなくていい」とかぼろぼろしゃべって、最後に「それに渉くんは」仰向けになって「空気になっても煙草くさいから分かる」と言って薄く開けていた目を完全に閉じた。やがて小さな寝息が聞こえたのを確認して、やっと片手で自分の両目を覆った。消えたいのに、見つけてほしい。言えるはずなかった。狭い都会に切り取られた夜空に混じる最も暗い恒星を見つけて、それを拾ってくれる人がいるなんて。好きだと思った。
箱の中の本数を確認して、今持っている分を消す。足りなくなったら、買いに行けばいい。煙草なら。
「そこまで俺、話してたんだな」
皆越が顔を上げる。
「まぁ、あの時は俺ベロベロに酔ってたし、渉さんも飲んでたからタガ外れてたんだと思います。でもすみません俺記憶はなくなる方じゃなくて、酔い覚めていくうちに渉さん、早いところ足洗った方がいいかと思って」
段々と声が小さくなり、余計なお世話ですね、と皆越が膝に顔を埋める。
その姿に、同じようにベランダに座り込む痩せた体を重ねる。まだ思い出せる。煙草。もう一本。
「もう、来ないんだよ。滅多に」
横から立ち上がる音がした。吸おうとしたが、それより、渡された缶ビールを一口飲む。ぬるくなってもまだ強い炭酸が喉を抜ける。皆越が窓を開けて部屋に入り、すぐ戻ってきた。手にビール缶を持っている。プルタブを開けて、勢いよく飲む。
「なんだ、終わってたんですね。あー良かった」
安心した顔で一杯目のように美味しそうに喉を鳴らす。「まあ、そんなもんだよ」と返し、同じように腕を高く上げてビールを流し込んだ。言葉はとても大事で、言葉にしたらその事実が冷たい液体と一緒に体に深く刺さって思った以上に染みた。
「皆越、彼女心配すんぞ。終電あるうちに帰れよ」
「そうですね、今日もただ飲み、あざっした」
いつもの調子に戻っていてホッとする。じゃ、さみーんで部屋入ります、と皆越はベランダを後にした。
空を見たら、月も星も広がる雲に隠れていた。唯一、移動する飛行機だけちかちかと瞬いている。見下ろす街はもう暗く、大多数の家たちは今日一日を終えていた。闇の中で街灯だけがぽつり、ぽつりと、光っている。迷わないように、これ以上夜を寂しくさせないように灯っているのだろう。このレベルの光を道標になる一等星としたら、ギリギリ肉眼で見えるのはたしか六等星だから。例えるならこの時間に道ゆく人が開いたスマートフォンの画面くらいか。いやブルーライト、それもどこか、眩しすぎるな。
空や街にわずかに残る光を数えて、あとの酒を飲み干した。
「じゃ、おせわになりましたぁ」
玄関で靴を履いた皆越が言う。さっき、寝てるんですけどね、と一応彼女にLINEをしていた。こいつのその時の顔を、彼女も知っていたらいいな、と思う。
「あと、今日色々すみませんでした。まぁ偉そうなことを」
「それはいいよ。俺、心配かけてたんだな」
ごめん、と言ったら「本当ですよ」と皆越が今日何回目かわからないため息を吐いた。
「渉さんはいい先輩ですんで、なんか女沙汰で泥沼な姿見たくないんで」
他人にはそう見えるのか。見えるよな。
「でも」
皆越はドアノブに手をかけて俯いた。
「前に、渉さんが彼女さんのことめちゃくちゃ好きなのはわかりました。だから言えないことが多いことも、わかりました。他人の恋愛に口出すなってのもわかります。結局決めるのは本人たちだってことも」
突然その手を離し、両肩を掴まれ、揺さぶられる。皆越が叫ぶ。
「だけど、俺は渉さんには幸せになってもらいたいんです!」
近所迷惑になりかねない大声で驚いた。今の彼女紹介して、そして俺の結婚式にはきてほしいです、とまるで主旨が違うことを口走る。目の端が血走っている。思いの外、酔っ払っているらしい。わかった式には行く、頼むから気をつけて帰れよ、となんとか宥めてやっと送り出した。
一人になると急な静けさに落ち着きを取り戻し、突如疲労に襲われた。そして、和羅の声がした。
――渉くんは、たぶん幸せになれないよ。
玄関の電気を消し、リビングに足を運ぶ。姿見に自分が映る。
俺は言霊でも呪いでもなんでもいいから、和羅がいればそれでいいと思った。誰かのものでも、二人の世界さえあればいいと思っていた。そう願うのは一緒だと信じていたけど、少しずつ、少しずつ、和羅の本体は見えなくなり、触れられなくなった。仕事忙しい?と聞いたら、うん、と返す。次はいつ会う?と聞いたら、そのうち、と答える。そこから先は聞けなかった。向けられた笑顔はいつものままだったから、もう踏み込めなかった。もしかすると和羅が元の場所に帰っているのかもしれない。新しい安全な場所を見つけたかもしれない。それを邪魔する権利はない。
皆越が片付けまでやって帰った、あっけらかんとした部屋をぐるりと見渡す。本体を手にしなくてもしばらくは大丈夫だった。部屋に散らばる欠片を撫でて、記憶の中の目の色や声に触れた。嫉妬に狂ってどうにかなりそうな時は、あの夜に意識を飛ばしたら、手にした煙草に火をつけることを忘れたりもした。なんなら一緒にいる時よりも、吸う本数は少なかった。和羅はどうだろうか。ここにいる時も酒はよく飲んでいたから常備しているが、今は全く減らない。どこかで消費しているだろうか。それとも、もう必要なくなっているだろうか。
部屋の照明を消した。眠ろうとベッドに腰掛けたら、玄関に向かって右側のドアから光が差していた。さっき皆越が帰る前に片付けた空缶から酒がこぼれて、手を洗ったから洗面所の電気がつけっぱなしなんだろう。ふと、和羅はトイレに行くときに真っ暗だと怖いから、と寝る時は洗面所だけ電気を消さずにいたことがよみがえった。もう何度も行ったが、不意にあのコンビニに向かいたいという衝動に駆られた。だけどすぐ虚しくなり、理性で押し留めて横になる。
――渉くんは、たぶん幸せになれないよ。
和羅。幸せになれなくても、幸せを願ってくれる人がいるよ。それは、幸せの証明になるんじゃないかな。
何かすごく辛いことがあるわけでもないのに消えてしまいたい日常がある。ただ生きているだけで誰の目にも止まらない自分に価値がないと思う瞬間がある。でも、見つけてくれる人がいる。消えないで、と、見返りを求めず願ってくれる人がいる。わかりやすい手に届くものに依存しなくたって、そんな人が照らしてくれる光のおかげで自分の輪郭がはっきりとする。自分が空気ではなく、ちゃんと血が通い、外気よりも高い体温がある。生きていると実感する。だから和羅がいなくなって痛くて、皆越に心配されて安心する。俺は七等星だとばかり思っていたのに、誰にも届かないと思っていたのに、一等星とまでいかなくても存在を認識してくれる人がいる。自分の中に、光を見ている人がいる。
和羅。どうか幸せになってくれ。ここより安全な場所にいてくれ。俺が照らされたように、何か光を受け止めていてくれ。世界の端で、酒を飲まずに笑っていてくれ。願いが届いてくれ。
いつか、この欠片を見ても何も感じなくなる。そんな日が来る。なかなか来ないなら、どこか遠い場所に追いやるよ。もういいだろ。和羅。置き土産はあの夜からこのベッドまでで充分だ。今ならもう一度言える。全く違う角度から、言えるよ。和羅。会わないまま終わろう。
なんて、もう会うことはないだろうに。片腕で目を覆う。扉から漏れる、わずかな光も入らないように。
ようやく訪れた微睡の中、スマートフォンが振動した。画面を見ると懐かしい文字が並んでいた。
痛いくらい眩しくて、それは端から滲んでいった。
「愛を解く」yama