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小説 コンタクトレンズ #1

 コンタクトレンズをつけたまま、私は眠らない。

 眠れないんじゃなくて、眠らない。多分誘惑に負ければ簡単に眠ってしまえる。だけど、どんなに睡魔が手招こうが、腕を絡めて低めのいい声で、寝ちゃいなよ、その方が楽だよって囁いてこようが、生理的欲求に抗い、私は目を見開く。
 昔、知り合いがコンタクトレンズをしたままつい眠ってしまったんだと友人が話をした。次に目を開いた時レンズが瞳に貼りつき、離れなくなってしまったらしい。どうにかしようとまばたきを繰り返したり、目を擦ったあげく、レンズはなんと、瞳の裏側へと旅に出たそうだ。そこからはもう、恐ろしくて聞くことができなかった。青ざめる私に友人は、「まぁコンタクトって異物だからね」と言った。
 異物。それ以来、コンタクトレンズをつける前に私は、その話を思い出す。異物。人差し指に薄い透明をのせて、怖々瞳に近づけ、置くようにのせる。少しの違和感、まばたきを繰り返して、馴染むほんの少しの間だけ、別のことを考える。異物。
 しのくん。しのくんにとっての、私も、こんな感じだったかな。

・・・・・

 しのくんは、少し前まで付き合っていた人だ。
 出逢ったのは大学のゼミだった。講義室のドアを開けた時に目にした印象は、背がするりと高くて、たぬき顔だけど少し鼻の下が長い顔。なんだか惜しいと思った。ただ、自分より背が高い男子に出くわすのは私にとって貴重な体験だったので、それだけでしのくんのことはちょっと気になる存在だった。でもしのくんは立ち上がると割と猫背で、さらに話す時には相手の顔を覗き込むように体を曲げるから、目線の高さはいつも同じで、それもちょっと残念だった。
 挨拶を交わすほどになった頃、ゼミの休憩中にふと「東雲しののめかっこいい名字だね」と言ったことがある。すると、しのくんは何も悪くないのに俯いて、隣にいた男子が「神田さん、名字じゃないよ。こいつ名前なの」と言った。

 え、知らなかった。と言ったら、まぁちゃんと言ってなかったの俺なんで、すいませんと頭を下げられた。いやそっち謝るのおかしいでしょ、ごめんねと私が言うと、いやいやと彼がさらに長い体を折った。その時初めて、自分より背の高い人のつむじをまじまじみた。右回り。くるんっと綺麗でおかしくて、つい「ふ」と声が出て、それがしのくんにも伝染した。くっくっと音を立てる声の先を見たら、丸い目を細い三日月にしたしのくんがいて、「でも、うれしいです。かっこいいって」と笑った。思わず、私こそ嬉しいです、と言ってしまいそうになるほど、胸がさわさわとくすぐったくなった。

 それからしのくんと付き合うまであまり時間はかからなかった。
 何度かゼミの仲間と飲みに行ったり一緒に講義に出たりして、やがて私は「紺野くん」から「しのくん」と呼ぶようになった。夏の終わり、飲み会の帰りに送ると言われ、二人で夜道を歩いた。家が近づいてくると互いに口数が減って、これはもしかして、もしかするかもと思っていたら、しのくんの方から手を繋いできた。どういう訳かそのまま立ち止まってキスをして、「好きです」と言われた。情報を処理しきれなくて固まっていると、「あ、ごめん。順番」としのくんが焦り、一応順番とか考える概念あったんだと思って笑った。しばらくして、しのくんが私を「瑞里みずり」呼び始めた。

 付き合って少しずつ、しのくんのことがわかり始めた。しのくんは自分のルールに厳しい人だった。
 朝起きたらマグカップ一杯の白湯を飲む。シャワーを浴びて、歯を磨く。朝食はりんごを半分、皮付きのまま。午前中、他に口にするのは水だけ。服の色は黒と、薄いグレー、ベージュのうちのどれか。お米を食べていいのはお昼のみ。間食するならナッツだけ。夜飲み会に行く日はお昼を抜くし、行ったとしても炭水化物は食べない。唐揚げも衣がついているから食べない。どんなに遅くても日付を越える前にはベッドに入る。
 男子大学生とは思えない、まるでモデルのような生活。それだけじゃない。靴下を履くときは右足、靴を履くときは左足から。体を洗う順番は左腕、手を繋ぐときは右手、私が車道側でも頑なに。友達でいた頃から変わったところがあるなと思っていたけど、想像以上で戸惑った。ある日、白と深い青で統一されたしのくんの家で朝を迎えたとき、冷蔵庫に昨夜買ったプリンがあったので朝ご飯はこれを食べようと言ったけれど、しのくんはわざわざスーパーまでりんごを買いにった。

 家にいるときは、いつもしのくんのルールに従う。それを少しでも揺るがすことはできなかった。いや、できたのかもしれないけど、私はそれをしなかった。しのくんのルーティンを崩せば、しのくんはしのくんでなくなってしまうから。しのくんにとって、私は初めての彼女だった。それだけで充分異質なのに、これ以上しのくんの生活を脅かしたくない。

 あの日、朝からプリンを片手にスプーンの場所を尋ねる私は、しのくんからすれば恐怖だったに違いない。弾かれるように開いた瞳の中で、私の姿がふるふると揺れていた。溺れて、息ができないでいると、手にあるプリンをしのくんはそっととり、冷蔵庫に閉まった。そして上着を羽織り、玄関を出た。戻った時にはりんごを二つ手にしていた。しのくんはそれをひとつ私に渡し、上着を脱いでハンガーにかけた。一連の出来事の中で、私は一歩たりとも動けなかった。彼が台所でりんごを切る音がしても、テーブルでそれを食べていても、叱られた子供のように呆然と立ち尽くした。手渡されたりんごに、手の、熱がうつるくらい。

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