小説 コンタクトレンズ #4
リリンッ。リン。
軽やかにドアベルが鳴る。扉の向こうから、幼い男の子が顔を出した。母親らしき女性にその手に引かれて、恐る恐る小さな足を進める。初めてだろうか、好奇心旺盛に回る瞳が、やがてある一点をとらえた。途端、男の子はショーケースに走り寄り、手の広をガラスにつけた。彼の目の前には、外側に三角のチョコをつけ、チョコペンで顔を描いたネコのケーキ。
「かわいいね」
女性が言う。穏やかな声。男の子が女性を見上げる。
「でも今日はケーキ頼んであるの。それは買わないのよ」
男の子は、はあっと息を吸って、またネコを見つめる。大人しい子だな、と思う。
「予約していた宮下です」女性が私を見て言う。「宮下様ですね。少々お待ちください」と告げ、裏の厨房に下がった。
杏珠さんは回転台の上で生クリームを塗っていた。つい声をかけるのを躊躇ってしまうのは、集中に水を差してしまうからというより、その精巧な技術に見惚れてしまうから。杏珠さんの手にかかれば、まばたきする間に回るスポンジは真っ白なクリームを均一に纏っていく。つるんっとした側面。雪の朝を思い出した。まだ誰も歩いていない、まっさらの雪の原。子どもの頃に数回経験したような記憶。いや、もしかして何かの映像で見ただけかもしれない。
「神田さーん。何か用事?」
ふと我に返った。杏珠さんは視線はケーキを見たまま、パレットナイフから絞り袋に持ち替えている。
「すみません。ご予約の宮下様がお受け取りに」
「そこの冷蔵庫の中。メモ確認して」
絞り袋が差した先の業務用冷蔵庫を開ける。店のロゴが入ったケーキ箱がいくつも並ぶ中から、該当する予約名のメモが貼られた箱を探し出す。あった。午後4時、宮下様。猫ムース。箱を取り出し、売り場に戻る。
「すみません、お待たせしました。ご確認いただきますね」
ショーケースの後ろにあるテーブル箱を置き、中からケーキを取り出す。そっと、そっと。ケーキが置かれている台紙から伝わる冷気と、緊張で指がひんやりする。
ゆっくり女性の目線までケーキを持ち上げる。淡いチョコレートクリームに包まれたドーム型のケーキ。その上に濃い茶色のクリームが二箇所ツノを立たせて絞ってある。目は丸いチョコマーブル。中央に二つ控えめに並んだ白いクリームの上にはピンク色の三角のチョコがてんっとのっていて、そこから飴細工の細い髭が生えている。
「マロンだ!」
高い声が店内に響いた。視線を落とすと、男の子がケーキを見上げていた。小さな瞳の中に天井の照明が映って、キラキラしてる。
「すごい、マロンそっくりだね」
女性が声の主である男の子の頭を撫でた。眼差しが優しい。
「飼ってるネコちゃんですか?」
「そうなんです。この子、誕生日はマロンのケーキがいいって聞かなくて。少し写真を見せただけでこんなに可愛く似せてくれるなんて、驚きました。ありがとうございます」
その目のままで見つめられた。ぽっと心の温度が上がる。
「パティシエに伝えます。メッセージプレートはおつけしますか?」
「あ、ぜひ」
「メッセージどうされますか?」
口を開きかけた女性が男の子の肩に手を置く。「お名前言える?」
視点がケーキから私にうつり、すぐ顔を背けられた。一旦ケーキをテーブルに置き、ショーケースの前に回り膝を折って、男の子に目線を合わせる。「名前、教えてくれるかな?」ぱっちり二重、長いまつ毛。口元が辿々しく動いて、
「しの」
しの。
言いかけた男の子は女性のスカートを掴んで、その後ろに隠れてしまった。
「もうしのぶ、照れないでおっきい声で言いなさい」
大丈夫ですよ、ありがとうね。女性を見上げた後、男の子に礼を言い立ち上がった。
お名前はひらがなでいいですか。くん、をつけますか。お名前の後は何て書きますか。お誕生日おめでとう?ハッピーバースデー?
希望を聞き、杏珠さんにケーキを渡す時にそれを伝えた。プレートを仕上げてもらっている合間にレジをし、ロウソクの本数を尋ねた。男の子は片手をあげ全部の指をピンっと張った。ネコの髭の下にクッキーのプレートつけたケーキを改めて箱に入れ、外側にロウソクを5本入れたセロハンの袋をシールで貼り付けた。
「本当にありがとうございました」
箱を受け取った女性が言う。お気をつけてお帰りください、と言ったのと同時に女性がドアノブに手をかけ、リリンッとベルがなった。
ドアが閉まる前、男の子が振り向いた。無表情のまま、胸まで上げた手をわずかに振った。私は会釈して返した。
「あの子、男の子だったんだ」
振り返ると杏珠さんが厨房と売り場を繋ぐ入り口に立っていた。ドアを見つめている。
「だって、くん、って書いたじゃないですか」
「あ、そうだっけ。今って性別どっちかわからない名前多いじゃん」
不意にこっちを向いて「神田さんって下の名前なんていうの?」聞かれたので「瑞里です」と言ったら、「ギリギリ女かなぁ。いや、でも両方いけるか」と杏珠さんは首を捻った。なんですかそれ、と笑うと、杏珠さんもマスクの下で笑い声を出した。
「すっごく喜んでましたね、ケーキ」
「ね。時間かけて作った甲斐があったね。なかなか、あんな可愛い注文あんまりないからこだわっちゃった」
「ひげまで凄かったですよ。細かいなぁって、まじまじ見ちゃいましたもん」
「やったね」
ウェーイと戯けた声を出して拳を空中で回す。その手が、あんな繊細なスイーツを作り出すなんて不思議。魔法みたいだ。
「神田さん今日何時まで?」
「5時までです。何か手伝うことありますか?」
「いや、いいよ。もう予約分は作り終えたし。私が着替えて表出るから」
話しながら杏珠さんはショーケースを覗き込む。閉店は夜の7時。夕方のこの時間には、残ったケーキの種類もまばらだ。お客さんも予約している人が主だろう。
「神田さんさぁ、現役大学生でしょ。バイトしてていいの?」
「大丈夫です。3年の終わりで単位ほとんどとってるし、ゼミも卒業論文のテーマ決まってれば教授にメールで添削してもらうだけなんで。そんなに頻繁に行かなくてもいいです」
このご時世もあり用事がない限り、単位の足りている3、4年生は大学には行かない。ゼミも元々は希望制なので熱心に顔をだす必要もない。論文を書いている時に、どうしても資料や必要になら大学の図書館へ赴き、質問があれば教授に個人的にアポを取ったりしている。
「就活は?」
「学部でとった資格で就職探そうか、院生になろうか迷っていて」
「大学院に進むってこと?何勉強してるの」
「心理学です」
しんりがくかぁ、と杏珠さんが天井を仰ぐ。
「それってカウンセラーとかになるってこと?ぽいなぁ。神田さんって身長の割に雰囲気とか柔らかいんだよね」
そうゆう人によって角が立つような台詞を言える杏珠さんの方が、人と接することに向いている気がする。きゅっと絞った柑橘類のように、爽やかに杏珠さんは笑う。そこから出た言葉は酸っぱくても、スカッとしていて嫌な感じが全くない。繊細さな甘さはスイーツに注いでいるのか、本人の遠慮のないさっぱりとした性格が私には気持ちよくていい。
「ねぇ、神田さんの彼氏はなんて名前?男って感じの名前?」
ぐっと喉が詰まる。杏珠さんは「昨日何食べた?」くらいの軽い表情をしている。
しの。
「彼氏いませんよ」
「あ、そうなんだ。暇な時さ、ご飯でも行かない?アルコールいける?」
「いいですけど、仕事に支障でない程度に」
「心配しなくても、社会人は馬鹿みたいな飲ませ方しません!」
大学生ってすごいよね、あ、今はそんなに飲むような世代じゃないか、じゃあ私負けないねぇ~、と最後は独り言を喋りながら、杏珠さんは厨房に消えていった。
バイトが終わる時間まであと少し。棚の焼き菓子のレイアウトを整え、賞味期限を確認する。それが終わったら、ショーケースの外側にアルコールを吹き付け布で拭いていく。
ショーケースの中のケーキを見やすいように奥に並べ直していたら、ガラスに指紋がついているのを見つけた。小さな指の跡。さっきの男の子がつけた跡だ。
薄手のゴム手袋を付け直し、アルコールの入ったスプレーを持ってショーケース正面に回る。屈んでスプレーしようとした時に、男の子の顔がよぎった。濡れて、キラキラした瞳。名前。しのぶくん。どんな字書くんだろ。
手を動かし、アルコールを放つ。箇所に曇りが残らないよう、よく磨いた。
バイト後に菜生からLINEが来ていた。会おうよ、とメッセージの後にお店のURLが届いている。菜生は短大卒業後にアパレルショップに就職し、取り扱うブランドがテナントで入っている百貨店で働いている。連絡があった時刻は昼過ぎ。「何時終わる?」と送るとすぐに「20時には飲める」と来たので一旦帰宅することにした。URLをクリックすると、お洒落なイタリアンのページが表示された。洋菓子の甘い香りに包まれていると、反動でそれをかき消すような焼肉とか唐揚げとか食べたい気分だったけど、特にこだわりはない。どこの店にもビールは置いてあるだろうし、2軒目に行くようなら提案してみよう。
シャワーを浴びて化粧を直し、19時過ぎに指定された店に向かった。
店に着き扉を開けると、左手にカウンターキッチンがあり、数人女性が座っていた。右の壁は煉瓦色で、照明のぼんやりしたオレンジによく合っている。駆け寄る店員に菜生の姓を告げると、すぐに案内された。カウンター席の後ろを通り緩やかなステップを降りると、開けた空間に4人がけのテーブル席が手前に2つ、右手奥には2人がけのテーブル、その横がソファ席だった。こちらの席にどうぞ、とソファをさされる。
濃い緑色に生地に座ると、思ったよりも深く沈んでいった。合わせて、ふうっと心が解けていく。バイト疲れ、だ。立ち仕事で足が浮腫んでいるからだ。やっと落ち着いて座れたからだ。そう思ってメニューも開かず、テーブルに置かれた小さなキャンドルが揺れるのを見ていた。
「あ、ちょっと来てるなら連絡してよ」
声の先に菜生がいた。長くまっすぐな髪をサラサラと揺らし、向かいのソファに腰掛けた。
「なな、髪色変えた?黒?」
「うん、黒っていうかグレージュっぽくした。前のオレンジがちょっとブランドイメージには合わないかもって言われてさ。アパレルなんだから別に良くない?って感じなんだけど。まぁ、色も抜けてきてたし、もういいかなって」
自分の毛先を指でつまみ、不満げに彼女が言う。頭よりも少し上にあるペンダントライトに照らされた髪色が透けている。
「みずはもっと明るくしたら?大学ってそんな言わないでしょ」
「まぁ大学はいいけど、今バイトしてるし」
「バイト先うるさいの?ケーキ屋さんだよね」
「多分言わないけど、就活するかもしれないし」
菜生がさらに眉を顰める。「あ、でもグレージュいいね。それならできそう」と言うと、「これにしたかったらヘアサロン紹介するよ」と笑った。何気ない会話で加速するように心が軽くなっていくのがわかる。
店員にスパークリングワインを2つといくつかの料理を注文し、互いの近況を話した。運ばれたワインは飲みやすく、弾ける泡が喉の側面を程よく刺激していくのが心地いい。すぐ続けて同じものを一緒に頼み、料理がきたタイミングでそれぞれサングリアを注文した。
「最近は、どう?」
アヒージョに浸かったエビを口に運びながら、菜生が聞く。私は前菜の生ハムをフォークに刺し、答える。
「元気」
「うん、それは良かったけど」
彼女は白のサングリアを一口、浮かんだオレンジを避けて飲む。
「別れた直後よりも元気そうな見ためだけど、気持ちはなんていうか、落ち着いた?」
赤いサングリアを見る。中に入っているのはイチゴ、ブルーベリー、これは、りんごだろうか。
「うん、今はずっと落ち着いてるよ」
グラスから目を離さずに言った。へぇ、りんご、入れても美味しいんだ。
ふっと視界に指先が入った。別の赤に塗られた爪が、トントンとテーブルを叩く。
「はい、嘘ですね」
顔を上げると菜生がひどい顔をしていた。その顔を見て「まぁまぁ」と宥める。
「この一ヶ月でこれまでの日常が戻ってきた感じで、本当に落ち着いてるんだって。自分のペースで生活できるってやっぱり大きいよ。バイトも始めて一人の時間も減ったから色々考えないで済むし。そりゃ思い出さないなんてことはゼロではないけど」
しのくんと別れて一ヶ月経った。
二人でいた時間が一人になった。たったそれだけなのに、時間の流れ方はまるで違う。一日が、一時間が、一分が、あまりに長い。時間が経たない。
講義に出ても映画を見ても本を読んでも何をしても生活に空白はできて、後悔がすぐにその白を埋めようと押し寄せる。水中トンネルの水色と、しのくんの青い顔、泣いてしまった黒い自分。あっという間に思考は染まって、身動きが取れなくなる。勇気がなくて、傷つけたくなくて、言えなかった言葉たちはかえって鋭い刃となって、きっとしのくんをひどく痛めつけた。私が我慢できなかったせいで。私が何も言い出せなかったせいで。そう暗い想像に落ちていく時間もまた、長かった。
しのくんはあの日、涙が止まらない私の手を引いて水族館を出た後、来た道を同じ時間で引き返し、家まで送ってくれた。私の方こそごめん、も、送ってくれてありがとう、も言えず、しのくんが視界から消えたのに気付いたらベッドに倒れ込んで眠った。目が覚めた時には部屋は暗くて、唯一光るスマートフォンの液晶画面に、別れてください、という文字が見えた。数時間前まで手を繋いでいた人からのメッセージは偽物みたいで、もう終わっているのにそれを開いて認めてしまうのが怖くて、開けなかった。シャワーを浴びようと脱衣所に向かい電気をつけると、蓋をしたコンタクトケースがあった。開くと左右とも透明の薄い膜が浮いていた。持つ手が震えた。馬鹿みたいだ。こんな日に、こんなことがあった後に、私、しっかりコンタクト外してる。こんな時まで、律儀に生きていやがって。カッと込み上げた熱で目と鼻の奥が焼けたように痛い。そのまま座り込み、顔を膝に預け、声を上げず泣いた。
やがて夜が明けてから、ちゃんとメッセージを開いた。返信してそれが既読になったのを確認し、少し考えて、菜生に連絡した。
「そっか、そうだよね。あの時のみずに比べたらよっぽど元気になったよね。結局こんな時って無理矢理でもこう、毎日こなしていってさ、思い出す回数が減ってくしか治療法ないんだろうね」
ため息をついて、もうこれ食べてしまっていい?と菜生がキッシュのかけらをフォークでさす。どうぞ、と笑いながら言った。治療法なんてワード菜生らしくて、何より重く受け止めすぎないでくれる彼女の存在が有り難かった。ただ、別れた後の私を心配してくれ、しのくんのことも悪くは言わないけど、普段以上に明るく振る舞う菜生の態度に安堵と喜びの色が混ざっている気がした。ずっと、別れて欲しかったんだろう。
テーブルが僅かに振動した。菜生がスマートファンの画面を見て、私の表情を窺う。
「ちょっと前にさ、同じフロアで働く別のブランドの人と仲良くなってさ、その人帰り際に顔合わせたから今から飲みに行くんですって話したんだよね」
「そうなんだ」
「どこって聞かれたからこの店の名前伝えてさ、今から仕事上がるから一緒にいい?って言われたんだけど、呼んでいい?」
菜生はこうゆうところがある。好き嫌いがハッキリしていて、明け透けものを言うから嫌われることもあるけど、裏表が無いからすぐ人と打ち解けられる。社会人になってさらに交友関係も広がったからか、誘われることも増えた。二人で飲んでいる時もこうして連絡が入ることはよくあるが、私が気を遣いそうな相手なら最初から断ってくれる。
そんな彼女が言うから、悪い人が来るはずない。「いいよ」少し酔ってきたから、気分良く他人とも話せるだろう。
「どんな人?」
「いやぁセンス良くて勉強になる。ちょっと前にたまたま各店舗の全体会議があって、店長が出られないから代理で私が出たんたけど」
「え、すごいね。会議とか任されるの?」
「違うの。その日はマジで人いなくての代打。話聞くだけだからって先輩にお願いされて、今度奢るって言われたし。それはいんだけど、めっちゃ緊張していったら隣が伊織さんで。あ、今から来る人ね」
伊織さん。
「美人だなと思って話しかけたらめっちゃ優しくて良い人だった」
「何それ。それまでの緊張どこにいったの」
「どっか行くぐらい美人なんだって!会議の内容全然頭入らなかった」
菜生らしくて笑った。ちょっと連絡するね、とスマートフォンを触りだす。
別れた事実に心が支配される時もまだあるけど、こうして菜生とその友人と会ったり、バイト先で杏珠さんと話していると、時間だけじゃなくて心も前に進んでいる気がして安心する。あの日の冷え切った脱衣所を出て、ちゃんと他人と笑い合えている自分がいる。大丈夫。
ふと時計を見ると二十二時を過ぎていた。電車、まだ何本かある。最寄駅に着いたら歩いて15分。家でまたシャワーを浴びることを逆算したら、そろそろ帰らなければ、ベッドに入る時刻が日付を跨いでしまう。と、思考が動いて、止まった。いけない。それは私じゃない。
「もうすぐ着くって」
先に飲むもの頼んでおこ、と菜生がメニュー表を開く。そうだね、と言って残ったサングリアを飲み干した。底の方は、果実の味が強い。
どうやら伊織さんという人と別にもう一人来るらしく、合わせてドリンクを4つ注文した。店員がキッチンに戻る時に扉に向かい、いらっしゃいませ、と声をかけるのが聞こえた。二人の男性がステップを降りてくる。奥の席は全部埋まってるけど、と思った矢先、そのうちの白に近い金髪の人がこちらを見て手を挙げた。
「お待たせー」
「お疲れ様です」
「え」
思わず声が出た。菜生に視線を送るが、気づいていない。
男性たちがどこに座るか少しの間で悩む気配があったので、「私こっちに座るんで」と皿をフォークを持って菜生の隣にうつった。その時に小さく「男の人って聞いてない」と言ったが、菜生は「そうっけ?」と笑って少しも悪びれた様子はない。多分、菜生のことだから本当に言ってなかっただけで、私が勝手に勘違いしていたのだけど。
「玉置さんの友達なんだよね?」
向かいのソファに座った一人が、私に話しかける。どちらも顔は整っているが、恐らくこの人が伊織さんだろう。色素の薄い茶色い髪と瞳。綺麗な二重だけど、控えめで上品だ。すっと通った鼻筋、その下に形のいい薄い唇がある。さっきから隣のテーブル席の女子の視線を感じるのも無理はない。
「そうです。高校時代からの付き合いです」
「伊織さん、なんとみずは女子大生なんです。女子大生との飲み会セッティング、感謝してください」
「そうなの?それ聞くとなんか有り難い気がしてきた」
「ちょっと後藤さん、私とタメですからね」
後藤さんと呼ばれた男性が、屈託がない声で笑う。彼の白い髪は照明に近づくと染まってオレンジ色に見えた。
「後藤です。後藤伊織。隣のこいつは後藤遥って言います。同じ店でどっちも名字が一緒だから、僕は下の名前で呼ぶようにしてるけど呼びやすい方で良いよ」
「あ、はい。神田瑞里です。今年大学4年です」
姿から想像するより声は低い。話す速さはゆっくりで、鼓膜に波紋が広がるようにじわっと響く。
「どう書くの?」
「あ、え、何が」
「漢字。名前の」
「えっと、みずは、ずいって読む、端に似た漢字なんですけど。左が王篇の。りはさとです」
漢字など普段聞かれないので、戸惑いながらテーブルに字をなぞった。見つめられる指が震えてしまいそうになる。
「綺麗な字ですね」
思わず指が止まる。
「伊織さん、それ聞くの好きですよね。普通聞きませんよ」
菜生の言葉に我に返った。良かった。みんなに聞いているのか。
「なんか想像してなかった字だと面白いし、話題にもなるし。玉置さんの字も良いよね。珍しい」
「ありがとうございます。てゆか、後藤さんってはるかって言うんですか?」
「そうだよ。よく女に間違えられてたな。玉置、名前で呼んでいいぞ」
「えーいいですー伊織さんだけで間に合いますー」
「おまえっ」
菜生が笑い声を上げる。伊織さんの丁寧な口調に比べて、遥さんの方はいくらか砕けた喋り方だった。上からな物言いじゃなくて、親しみがこもっているように聞こえる。
合わせて笑っていたら、店員がドリンクを持ってきた。それぞれがグラスをもったところで、「じゃあかんぱーい!みずの失恋を記念して!」と菜生が音頭を取ったので、菜生以外の動きが止まった。心配していた友人の元気な姿、職場で知り合った異性との飲み、仕事の疲れも相まってさらにアルコールが後押しし、菜生のリミッターが外れかかっている。本音が漏れてきている。
「瑞里さん、そうなの?俺らきて大丈夫?」
グラスを打つ前に遥さんが尋ねる。ああもう、ななったら。他人様に私のことで気を遣わせてから。
「大丈夫です。ごめんなさい、ななが余計なことを。この子、もうだいぶ酔ってるんで、気にしないで」
「ダメなやつだった?」
息を飲んだ。
声の主は、伊織さんだった。
グラスを握った指の感覚が消えた。そこから冷えた血液は一瞬で心臓に達し、大きく脈を打ち全身の熱を奪った。
「ダメなやつだったなら、良かった。カンパイ」
伊織さんのそれを合図に、四人でグラスを合わせる。
流されるままグラスに口をつける。氷が唇に触れ、自分の体温を思い出した。
それでも心臓は凍りついたまま、耳元でうるさく鼓動を繰り返した。
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