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一首評×3 千種創一『砂丘律』より

だれひとり悲しませずに林檎ジャムを作りたいので理論をください

「風化は三月のダマスカスにて」

 誰一人として悲しませることなく林檎ジャムを作るためには、おいしい林檎ジャムを作ることができるのでなければならない。せっかくの林檎をおいしくないジャムにしてしまっては農家の人が悲しむかもしれないし、そのジャムの味を期待して口にした人のこともがっかりした気持ちにさせてしまうかもしれないからだ。
 そして大事なことは、「おいしい林檎ジャムを作らなければならない」ではなく、「おいしい林檎ジャムを作ることができるのでなければならない」ということ。作る前からおいしくなるとわかっていないといけない。作中主体はジャムを作り終えるまでジャムの味がわからないことへの茫漠とした不安を抱いている。だから「レシピ」ではなく、それを因果的に支える「理論」が必要なのだろう。主体はきっとジャムの作り方を知っていて、本当に知りたいのはどうしてその作り方でうまくいくのか、の方なのだと思う。正しいとされているものが何か、ではなく、正しいとされていることが本当に正しいことの理由を欲している、と敷衍することもできるだろう。
 しかし、完璧な理論をもってしてもジャムの味は作り終えてからでないとわからないはずである。なぜならジャムの「味」は主観的な観念だから。このことに気がつくのは完璧に近いベストな理論のもとでジャムを作ったときだろうか。「だれひとり」の中にジャムを作っている最中の主体は含まれているのだろうか。いやむしろ、「悲しみたくない」のは本当は主体ただひとりなのかもしれない。
 技巧的には、「林檎ジャムを」の6音を第三句に無理なく収めている点が上手い。途切れるところがなく、一息で最初から最後まで読むことができる構成になっていて、第三句の助詞の字余りをあまり気にせずに読むことができる。

君はあくまで塔として空港が草原になるまでを見ている

「風化は三月のダマスカスにて」

 「空港が草原になるまで」はどう読むべきか。「空港が取り壊される」という意味で取るのが自然ではあるが、「草原」という言葉選びに着目することで、「建物が時間をかけて腐り、土へと還り、そこに新たな生態系が誕生する」までを見通した壮大な時の流れとして読むことはできないだろうか。このとき「君」が見ているのは人の一生よりもはるかに長い時間であるということについて考えたい。
 とすると、「君」は空港が草原になるまでの一部始終を見届け始めた時点ですでに死んでいたのではないか。死者となり寿命という時間的制約を超えた存在として、あるいは純粋な視点そのものとして時を見守る。時のさらに上位にあるかのような視点としての「塔」と時の流れの中でその姿を失ってゆく「空港」との対比が美しく、「塔」は視点そのものという抽象的なイメージへとつながるメタファーとして相応の力を持っている。
 ただし、「塔」もまた建造物であるかぎり、時代による浄化を完全に免れることはできないのかもしれない。すでに死者である「君」が「塔」としても存在しなくなるのは、「君」を思い出すことのできる主体が死んでしまったときだろうか。

流し場の銀のへこみに雨みちて、その三月だ、君をうばった

尼ケ坂駅

 流し場の銀のへこみとは排水溝のことだと思われるが、そこに満ちるのは普通雨ではなく水道水ではないだろうか。もちろん屋外にある水道ならそこに雨が満ちる場合もあるが、とはえい水道に水道水ではない別の種類の水が満ちているという、日常的なんだけれども少しだけ視点や思考をそこにとどめさせる力を持った景を詠んでいて、その引っ掛かりを淡々と描写することが何かしらの特別な記憶を引き出すトリガーとして機能している。
 その記憶が語られる下の句は、字義通りに読むと「三月が〈君〉を(主体)の元から奪った」となる。このことは〈君〉の喪失について特定の原因を想定しているのではなく、世界あるいは時代といった全体性そのものが〈君〉という個人を簒奪していってしまったというニュアンスで読む方が自然だろう。それは戦争なのか、それとも自然災害のようなものなのかわからないけれども、〈君〉を奪われたことへの怒りというよりも、何か途方もなく大きなものを前にして〈君〉を自らのもとに留めることがどうしてもできないという無力感、あるいは全体性に対する個人の矮小さをむしろ強く感じさせる歌である。描写として、このある種の諦念を雨という自然現象(=人間が逆らえないもの)にさりげなく仮託している点に確かな技巧を感じる。
 主体の経験の中に閉じた歌ではあるが、だからこそ悲痛なその体験の一回性(=不可逆性)を強く押し出すことに成功している。閉じた短歌の強みとはこういうものだと思う。



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