
Google Photoがふいに見せるもの
もう随分長いこと東京にいるけれど、「私の街」といったら生まれた場所を思い浮かべる。
私にとっての「地元」は、今でも弘前のままみたいだ。
この前、十数年前の写真を、Google Photoが差しだしてきた。
写真は10枚くらいがランダムにセレクトされている。

「あぁ、私のふるさとだ」
じんとして、胸が熱くなる。
岩木山と、広い空。
澄んだおいしい空気。
上京してからも、しばらくは毎月のように帰っていた。

故郷を離れる日が来るなんて思わなかった。
ましてや、東京や、フランスに住むなんて、想像すらしなかった。ふるさとがだいすきで、一生いるんだと思っていた。

岩木山と、電車から見た風景の写真を撮ったとき、まだ東日本大地震は来ていなくて、いつか世界中の人が家から出られなくなる日が来ることも知らなかった。

Googleのアルバムの中には、もう存在しないカフェの写真があって、

これがここで飲む最後のお茶の日になるなんて、少しも思っていなかったあの頃の自分のを少し不憫に思った。
いつのまにか私は、差しだされた10枚よりたくさんの記憶を探りたくなって、アルバムを捲っていた。

その年、私はトランシルヴァニア山脈を訪れたり、

パリのサクレクール寺院のふもとでメリーゴーランドに興じる男の子を見たりしながら、始めたばかりのフランス語翻訳のことをぼんやりと考えていた。

やりたいことがいくつかあって、どんな風にも転べる可能性と若さがあって、そしていつもどこか孤独だった。友だちはいたし、東京暮らしも楽しんではいたけれど、あんなに故郷に帰っていたのは、あんなに旅をしていたのは、「さて、どう生きていこうかな」と考えているからだった。自分の根が生える場所を探していた。

どこに旅をしても、興味は「暮らし」。
土着のものを知るのがだいすきだった。
家を心地よくしている人がいると、私まで嬉しくなってたくさん影響を受けた。

昔の写真を一通りスクロールしてから、目の前を見たら、フランスでよく見かけた赤いチェックのテーブルクロスと、どこの国へ行っても惹かれたママンの手料理みたいな、うちの食卓があった。

それで、私の思い描く「家」は、東京とか、日本とか、場所は関係がなくて、私が暮らしていれば、そこがそうなんだと、妙に納得をした。
もし今の家がなくなっても、本当の意味では、何もなくすものはない。
住む街が変わっても、そこに自分の居場所は作れて、心地よく整えることができる。
その時に、これまで見聞きした光景が、また暮らしを形作っていくのだろう。
今当たり前にあるものが、過去の経験からできていることを視覚的に再確認させてもらったような、Google Photoとの時間。
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長いことクラウドで写真をストックしていると、突然過去が遊びに来たり、ふと何かに気づかせてもらったりするのがいい。
ちょっとドキッとするけど、なんだか、テクノロジーが人の暮らしに入ってきたことで、あたらしくてあたたかな物語が生まれているような気がしている。
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