風の色【シロクマ文芸部】
風の色って何色かなあ。ぼくは、真っ白な算数のワークをほったらかして、ぼんやり窓の外の青空に目をやっていた。
そもそも風って、どこから来てどこへいくんだろう。始まりはどこなんだろう。
特に苦手な算数の授業中、ぼくはときどき詩人になる。小数の割り算なんか、最初からこの世に存在していないかのように思えたとき、不意に、視界に赤い風船がふわっと現れた。
「あっ」
思わず声を上げて立ち上がると、教室の中にいたぼく以外の全校児童4人が振り向き、清水先生の声が止まった。
「風船だ! 風船が飛んできた!」
みんなすぐに席を立って窓辺に駆け寄った。
「こらユタカ、おまえワーク終わったのか?」
苦い顔をしながら、先生もぼくの隣りに立った。
「ふうせん、どこ?」
2年生のサキが不安そうに言う。
「鉄棒に引っかかってるよ、見える?」
6年生のタケオが言うと、同じ6年生だけど学校で一番体の大きいアイが、まだ体の小さいサキを抱き上げた。
「ふうせんだ! てつぼうにつかまってるよ!」
「おまえら授業中になぁ」
席に戻らせたい風の先生の脇腹を、ぼくは肘で小突いた。
「先生も気になるくせに」
「……まあ、気になるけど。……行くか!」
清水先生の一言で、わーっとみんなで声を上げて教室を飛び出した。
平屋建ての小さい校舎を出るのはすぐだった。きれいな海のほかには何にもないこの島だから、校庭がとにかく広い。ぼくたち小学生の足では、校庭の端の方にある鉄棒までなかなかたどり着かない。それでもみんな、赤い風船に向かっていつの間にか全力疾走していた。
一番に鉄棒にたどり着いたのは、ぼくと同級生のヤスヨだった。
「ねー! なんか、付いてる!」
ヤスヨの声に、ぼくの胸が大きく音を立てた。風船になにか付いている、といえば、「どこか遠いところに住む子供からの手紙がついてる」とか「珍しい花の種が送られてきた」とか、そういうのじゃないかと思った。アニメか何かみたいだ。そんなこと、本当にあるんだ。ぼくのいる、この小さな島にも、そんな奇跡が起こるんだ。
次々にみんな鉄棒にゴールインして、それから大きく遅れて清水先生が到着した。
「お、おまえら……そんなに授業がイヤか……」
「先生! 風船になにか付いてます! 手紙だと思います!」
ヤスヨが、誇らしげに風船を指差す。息も絶え絶えに、清水先生が腕を伸ばしてヤスヨを制した。
「待て待て、俺が見る! おまえらさわるなよ、爆弾かもしれん」
先生はぼくたちを鉄棒から少し離れさせた。おそるおそるひもに触れて風船を引き寄せた先生はかなりのへっぴり腰で、ぼくたちは笑いをこらえて立っていた。先生は眉間に深いシワを作りながら風船のあちこちを見ていたが、風船のひものさきに付いていた紙切れを開くと、聞いたことのない奇妙な大声を上げて風船から飛びのいた。
「ど、どうしたの、先生」
風船はまだ、鉄棒に絡みついている。
「おまえらみんな教室にもどれ! 早く!」
先生が叫びながら、一番に校舎に向かって駆け出した。いつもはわりとのんびりしている清水先生らしからぬ様子に、ぼくたちも戸惑いながら、風船を放置して走り始めた。ぼくは走っているうちに、これは本当に何かヤバいことが起きているんじゃないかという気がしてきた。ほかのやつらもそうだったらしく、一生懸命走っているのに顔が全然赤くならない。
「ねえ、ねえ、ふうせんおいてくの?」
サキが、もたもた走りながら何度も振り返る。アイがサキを抱え上げた。
「サキ、忘れよう」
「やだぁ」
半泣きのサキを担いで、アイも走るスピードを上げた。
校舎に全員戻ってきたことを確認して、清水先生はすぐに台風対策のシャッターを下ろして扉を閉めた。先生の両手は壊れたおもちゃみたいにとにかく震えていて、鍵をかける音が、昇降口にガシャガシャと大きく響いた。突然おしっこががまんできなくなるみたいな怖い気持ちが、ぼくのお腹の奥の方からせり上がってきた。今すぐ家に帰ってお母さんにしがみついてわあわあ叫びたいくらい怖いのを、歯を食いしばってがまんした。
清水先生が、上履きに履き替えもせずに廊下に足を踏み入れた。
「俺は校長先生に報告してくるから、タケオ、みんなを音楽室に連れて行け」
タケオの表情が、大人みたいに厳しくなった。ぼくの口から、不安がこぼれ出た。
「先生、先生も、来るよね?」
「……いいから早く行け!」
清水先生の怒鳴り声を、ぼくたちはそのとき初めて聞いた。ついにサキが泣き出した。
「みんな、行こう。先生もすぐ来てくれる」
その声は少し震えていたけれど、こういうときのタケオはやっぱりかっこよかった。みんなうなずいて、タケオに促されるように、校舎の一番奥にある音楽室に急いだ。
音楽室に入るとすぐに明かりをつけて、ぼくたちはグランドピアノの下にもぐり込み、おしくらまんじゅうみたいに体を寄せ合った。
最後尾にいたタケオが扉を閉める。すぐに、カチャン、と金属の音がして、ヤスヨがはっとタケオを振り向いた。
「なんで鍵閉めるの? 先生来るでしょ?」
タケオはぼくたちに背を向けたまま、何も言わずに部屋のカーテンを全部閉め、ピアノの下に滑り込んできた。ヤスヨはタケオに掴みかかった。
「タケオ! なんで鍵閉めるのよ!」
「ヤスヨ黙って! サキが怖がる」
「だって! ……ねえどういうこと? 6年生は何か知ってんの? ねえ、アイ!」
アイは、泣いているサキを抱きしめたまま黙っている。異常事態に、ヤスヨも泣き出しそうになったそのとき、
「声出すな! ……太一郎だ!」
タケオが鋭く言った。ぼくたちはハッとして口をつぐみ、呼吸すら止めた。
音楽室の外で、唸るような声が聞こえる。廊下でいろんなものが激しくぶつかり合い、窓ガラスが何枚も割れる音がする。ぼくは耳を両手でふさぎ、悲鳴を上げそうになるのを、自分の唇を強く噛んで耐える。
太一郎だ。
太一郎が来た。
いつ、どこから来るかなんて、誰も知らないけど、この小学校に昔から伝わる怪談、「太一郎」。もちろんぼくら5人とも知っている。
太一郎という大きな体のおばけが、「友達になってください」という手紙を持って学校に来たけれど、太一郎があんまり大きいから誰も友達になれなかった。キレた太一郎は学校を破壊するほど暴れたが、その当時の校長先生に叱られて、風に乗って逃げていった。あきらめきれない太一郎は、30年ごとに「友達になってください」と書いた手紙を送ってきては、学校に現れて暴れるようになった。しかしそのたびに、その時の校長先生が追い払っている。そういう、なんだか残念な怪談だ。
「……こ、校長先生、来るよね」
ヤスヨの言葉に、タケオがうなずく。
「来る。清水先生が、絶対、連れてきてくれる」
頼りなく細い声だったけれど、タケオの目は真剣だった。
「でも、校長先生、強そうじゃないよ」
サキの意見にはみんな賛成だった。
ぼくらの今の校長先生は、痩せていて小柄なおじいちゃんだ。そしてとにかく優しい。これはとても勝てないと思ったそのとき、廊下が急にしんと静まり返った。
「校長先生の声だ!」
拡声器を使っているらしい、校長先生の柔らかい声が聞こえてきた。タケオが、
「おれら、いっつもこの声で眠くなっちゃうんだよな」
ASMRってやつだな、と小さく笑った。その笑いはあっという間に4人に伝染した。
「話、長いしね」
「ほんと、わたし、朝会のときとか立ったまま寝てるよ」
「清水先生が止めなかったら、1時間目も余裕で食い込むもんね」
「でもいっつもなんの話してるか、あたし全然わかんないよ」
「みんなわかってないよ!」
ひそひそと、5人で頭を突き合わせてしゃべっているうちに、さっきまで恐怖で震えていたことを忘れてしまった。そのうち、いつもの調子で関係ないおしゃべりを始めてしまい、みんなですっかりリラックスして床に座り込み、時々聞こえてくる校長先生の声を聞いていた。
「……今日も長いね」
「おれずっと時計見てんだけどさ。もう50分経ってる」
「太一郎って、校長先生の話ずっと聞いてんのかな」
タケオが代表して、音楽室の扉をそっと開けて廊下の様子を見に行った。彼はすぐにグランドピアノの下に戻ってきて、力強いVサインを突き出した。
「もう何にもいないよ。でも校長先生はずっとしゃべってる」
ぼくたちは、どっと笑った。
初めて参加させていただきました。
「風の色から始まる創作」、本当に難しかった!
でもこの歯ごたえ、癖になりそうです。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?