玄奘三蔵と唯識と書
玄奘三蔵
言わずと知れた唐時代の僧。貞観元年秋8月(貞観3年説もある)、国禁を犯してインドへ求法の旅へ出たのは仏典の原典を求めるため。特に唯識思想の重要な論書、『瑜伽師地論』を手に入れることは玄奘三蔵の念願であったようです。
貞観19年正月25日、玄奘三蔵45歳、約17年の求法の旅を終え、馬20頭に経典・仏像の類を乗せ帰国します。
玄奘三蔵は当時の都、洛陽の太宗皇帝に国禁を破った罪の許しを請い、持ち帰った経論の翻訳にとりかかります。
この時、太宗は国家事業としてこれを後援していましたが、玄奘三蔵は翻訳した『大菩薩経』、『大唐西域記』を太宗に献じ、特に新訳の経論に対し序文を賜るよう要請します。
そこで貞観22年(648年)8月、太宗はみずから聖教序を作り、皇太子の李治(後の高宗)が序記を選して与え、これらを褚遂良が書いたものが「雁塔聖教序」。書の世界では有名な楷書の作品です。
玄奘三蔵の業績は弟子の窺基に受け継がれ、窺基はその後唯識思想に基づいて法相宗という宗派を興します。
それらはほぼリアルタイムに、遣唐使とともに大陸に渡った学僧(道昭、智通、智達、智鳳、知鸞、智雄、玄昉ら)を通じて日本にもたらされ、現在へと繋がっていくことになります。
玄奘三蔵や弘法大師について調べていると必ず出てくる「唯識」。ただ、難解だといわれる唯識にとりかかるのはもう少し後にしようと先延ばしにしていました。
ところが先日私が所属する書部会の講演会が行われた時、講師の先生が唯識を盛り込んできましてね。。これは時機がきたのだろうということで、唯識と接点を持つことにしました。
唯識に関しては九條正博様が分かりやすくお書きになられています。
唯識思想とは
唯識思想とは、およそ4~5世紀のインドにおいて弥勒・無著・世親によって大成された思想体系で、世界は識が現し出したのみであって、実体的存在は何一つない。全ての存在の構成要素は、心の中に認識されて初めて成立すると説いています。
唯識思想では私たちが認識する世界は、「ある」のではなく「なる」。「なる」というより「ならしめる」。
自己を離れて存在する客体をとらえて、かくかくしかじかと主観が認識するような主客二元論ではなく、どこまでも心の問題としてとらえます。
仮に憎い人がいるとします。
しかし、本来その人は無色の普通の人。私の中に「憎い」という思いと言葉が生じなければ「憎い人」は存在しません。
唯識はこの「憎い」という思いや言葉が自分の中に生まれるのは「自分への執着(我執)」によるもので、これが苦の原因になっている。
そしてこれらを捨てられない理由は深層に〈末那識〉という自我執着心が働いているからと主張します。
大切な「別のものの見方」 〈縁起の理〉
横山紘一氏は『唯識の思想』の中で、エゴ心(我執)に色づけされた視覚だけではない別の「ものの味方」をしましょうと述べています。
この「縁起の理」にしたがってものごとをとらえると、人間は実体的にあるのではなく、関係的にあるということが見えてきます。
以前、カルロ・ロヴェッリ著『世界は「関係」でできている 美しくも過激な量子論』を読みましたが、ここにも繋がるのですね。
私が走ることができるのは、反発をもらえる固い地面があるから。
私が相手とコミュニケーションをとることができるのは、相手が相応の言語能力を持っているから。
他者があって、自己がある。
あなたがいるから、私がいる。
私というものは、あなたと私の関係性の中に存在する。
数多くのものの支えによって私は今、生かされている。
そう考えるとおのずから感謝の気持ちがわいてくるものです。
唯識の思想を少々何かを読んだ程度で理解できるはずもなく、ヨーガ(瑜伽)や実践的な心理学的要素も含め、あらゆる方向から学び続ける必要があると感じました。
結果的に、唯識はまだよくわかりません。
でも、それでよいのだと思います。スタート地点に立てたので。
唯識の思想に限らず他の思想・哲学においても同じですが、これが絶対だと思っているわけではありません。
これらは先人の積み上げてきたものから学び、自分自身の思想体系を構築するための通過地点で拾い上げる、石のようなもの。積み上げて血肉化し、よりよく生きることが目的です。
そんなことを考えていると、雁塔聖教序に対する思いも、違ったものになってきます。
じーっと雁塔聖教序の法帖(折本に仕立てられた手本)を眺めていると、石に刻まれた文字の一つ一つの中に、深奥な世界が広がっていることを感じるのです。
【参考文献】
・前田耕作『玄奘三蔵、シルクロードを行く』 岩波新書
・横山紘一『唯識の思想』 講談社学術文庫
・多川俊映『唯識とはなにか 唯識三十頌を読む』 角川ソフィア文庫
・カルロ・ロヴェッリCarlo Rovelli『世界は「関係」でできている 美しくも過激な量子論』NHK出版
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