『バレエメカニック』
彼らは素晴らしい。最高の作家たちだ。共に過ごした宝物のような思い出は数えきれない。
だが最大の欠点は、皆とっくに死んでいるということだ。
『魅せられて四月』
エリザベス・フォン・アーニム
「バ・レ・エ・メ・カ・ニ・ッ・ク」
小さいけれど明瞭なその声は、すぐ下の方から聞こえてきました。
手にしていた文庫本をずらして目をやると、小学校低学年くらいの女の子が、座席からこちらを見上げています。
地下鉄の車両はほぼ満員ながら、ほとんどの人が手元のスマートフォンに視線を落としているため、話し声もなく静かです。
そんななか女の子が音読したのは、吊り革につかまりつつ私が読む本のタイトルで、よほど気になるのか、目線は文字の上に止まったままです。
「見る?」と本を手渡してあげたい気がしたものの、それもなんだか妙な気がしてやめました。
ページをめくっても彼女にはまだ理解不能な内容ですし、もし
「どんなお話?」
と聞かれても、私もうまく答えられるかあやしいものです。
言えるのは
「バレエとは関係ないお話…」
くらいでしょうか。
『バレエメカニック』は津原泰水さんによるSF幻想小説で、女の子の気を引いたそのタイトルは、フェルナン・レジェの同名映画にちなんでいます。
レジェの『BALLET MECANIQUE』は1924年、ベル・エポックの時代に生まれ、そのあまりにエキセントリックな前衛性は、今でも類を見ないものです。
ストーリーらしいものは皆無であり、全編にわたって鳴り続けるピアノとサイレン音をバックに、レジェにしか分からない法則性で数々の模様が画面に現れては消えを繰り返します。
そこに混じって何らかの機械や部品の断片、“モンパルナスのキキ”ことアリス・プランの唇や顔が映し出され、反転し、揺れ、分割されと、執拗に繰り返されるイマージュは、一体何をどのように捉えるべきか、観る者を困惑に陥れます。
これに比べればキューブリックや現代美術の映像作品すら分かりやす過ぎるほどで、おそらく意図を持たないことこそが意図である、極めて風変わりな異端映画でした。
津原さんの『バレエメカニック』も本家に劣らぬ奇譚ぶりをいかんなく発揮しながら、構成や骨組みが緻密で堅牢なため、非日常の物語にも違和感なく没入できます。
幻想小説にSF、少女小説、エンタメ、青春ものと、津原さんはあらゆる分野の作品を手がけましたが、ご本人の「全ては広義の幻想小説である」との言葉通り、やはりどの作品にも密やかに刻印された独特の徴を感じます。
ことに『蘆屋家の崩壊』『ピカルディの薔薇』など〈幽明志怪シリーズ〉に漂う、悪魔的な美の壮絶さには、どれほど心臓を鷲掴みにされる思いがしたことか。
そんな感想を書いた私のTwitter(現X)の投稿にご本人が反応してくださったことがきっかけで、直接の交流の機会も持てました。
去年の今時分に津原さんが亡くなったため、私にとっては忘れがたい大切な思い出です。
「僕は近頃、死んでしまった人の歌ばかり聴いている。もう本人はこの世にいないのに、声だけはまだ残されているっていうのが、とても不思議で良いから」
かつて画家の横尾忠則さんはそうおっしゃっていましたが、私も最もよく聴くのは“もう死んでいる人”の歌であり、読むのも“もう死んでいる人”の本です。
たとえばボブ・ディランのようには、死者は決して自らのスタイルを変化させず、進歩も後退とも無縁のまま、亡くなった場所に永遠に留まり続けています。
だからこそ死せる芸術家の作品を好む人は、現在形で変化していく人の作品には食指を動かさないのだ、という分析を読んだことがありますが、なるほどそれも一理あると思います。
私は“生きている人”の作品をあえて避けることはしませんが、やはり好きな芸術家の大半は、もう鬼籍に入った人たちです。
その理由を深堀りするのも芸術論に心理学などが絡んで面白そうですが、それはまた別の機会が適当でしょう。
その反面、ある芸術家と同時代に生き、その人がどのように時代の空気感を作品に取り入れていくかを追うのもまた、ひとつの大きな喜びです。
だからこそ津原さんの突然の訃報に、私は激しい衝撃を受けました。
他にそんな作家はと問われたら、頭に浮かぶのはスヴェトラーナ・アレクシェーヴィッチやパトリック・モディアノですが、お二人ともが高齢であり、どうぞご息災で長い活躍をと祈らずにいられません。
唯一無二の作家たちは、それゆえ他の何者にもとって代わることができない。
それはいかんともしがたいジレンマと言えそうです。
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