あの人の言葉が聞けたなら
歌は終わった。だがメロディーは残っている。
── ドゥムスティエ
さる宗教系大学の教授と話していた際、ふとしたきっかけで、作家兼ロシア語通訳者である米原万里さんの名が上がりました。
万里さんが大好きだ、と言う私に、教授は意外そうな口ぶりで
「驚いたな。ついこの間、池田先生から米原さんの話を聞いたばかりなんですよ」
“池田先生”とはテレビでもよく拝見する生物学者の池田清彦さんのことであり、教授は仕事や私的な集まりの場で、池田先生とは幾度となく顔を合わせているといいます。
池田先生が万里さんと親しい間柄であったことは有名ですし、ぜひ詳しく聞いてみたいと、私は勢い込んで教授に尋ねました。
「お話って、どんな?」
「思い出話です。米原さんが、いかに頭のいい女性だったか。
池田先生が読売新聞で読書委員をお務めの頃、米原さんもご一緒で、他の委員は日野啓三、養老孟司、高田宏、吉岡忍っていう」
「すごい。錚々たるメンバーですね」
「その錚々たるメンバーをもってしても、米原さんには敵わなかったそうですよ。
『誰が何を言おうが、あっさり言い負かされるからね。男連中は、みんな彼女に一目も二目も置いてたよ』
って池田先生がおっしゃるくらいだから。よっぽどですね」
なんだかその場の情景が浮かぶようで、万里さんが皆を圧倒して話し、笑い、座を沸かせる様子を、ぜひ私も見てみたかったと思います。
亡くなってもまだ折に触れてその人を思い出し、こんな時にあの人ならどうしただろう、と思わせる著名な人は多いものです。
たとえば国内だけでも、忌野清志郎なら今どんな歌を歌っただろう、鶴見俊輔さんは世界情勢をどう見るだろう、ナンシー関や天野祐吉さんは社会風俗をどう斬って、山口小夜子さんは何をどう着ただろう、などと、私はしばしばもう同じ世界にはいない人を思い、その人の言葉や行動に触れられないことを惜しみます。
むろん万里さんもその一人であり、もしご存命なら、昨今のロシアやその関連事項について、他の追随を許さない鋭い発言を連発なさっていたでしょう。
ゴルバチョフ書記長やエリツィン大統領の通訳を務めた実績からして、万里さんがプーチン大統領の通訳に就く可能性も高く、そうなれば日露関係にどんな影響が及んだことか、とも考えます。
万里さんが現在の国際政治の舞台でどのような活躍をし、どんな発言をなさったか、私には想像もつきません。
けれどひとつだけ確かなのは、きっと単純な二元論的思考や、そこから派生する行き過ぎたロシア叩きを、良しとはしなかっただろう、ということです。
ロシアがあらゆる悪の根源であり、プーチン大統領はヒトラーやスターリンに匹敵する極悪人である。
そんな前提が100%の真実であり、ロシア政府が最悪の機関であったとしても、それがそのままロシア人や、ロシア文化への攻撃の正当化につながって然るべしとは、私には思えません。
日本でもロシアの人への中傷や嫌がらせがあるそうですし、長年続くロシア文化体験イベントは、今年も理由を明かさず中止になりました。
私の住む街はロシアの街と姉妹都市関係にありますが、ここ最近は一切の交流が途絶えたままです。
大学でロシア語学科が閉鎖され、一般向けロシア文学講座が閉じられた、というニュースも聞きました。
そして、私が最も大きなショックを受けたのは、アメリカの報道機関による、ロシア語の本が大量廃棄される映像です。
トラックの荷台に積まれた本が、ぶ厚い手袋をはめた手により、次々とコンテナの中に投げ入れられる。
かつてどこかの家の本棚や卓上にあり、誰かの手に取られた本が、今は憎しみの対象となり、乱暴に打ち捨てられる。
それは痛ましい光景でした。
その映像への「ナチスと同じだ」という英語の書き込みに、私も強く賛同します。
ロシア政府の在り方を憎むあまり、そこにつながる文化を疎んじ、穢らわしいもののように書物を滅する行為は、新たな薄ら暗い憎しみしか生まないように思います。
それは第二次大戦中、日本が“敵国”アメリカの音楽や映画に唾棄し、人形を燃やしたこと、対するアメリカでも在米日本人に銃口を向け、フェンスの奥へ追い立てたことと同種の蛮行です。
一冊の本、一枚のレコード、一人の人間が、ある国家の代表であるかのごとく責め立てられ、咎められ、その“罪”を肩代わりさせられるのは、理不尽で悲しいことです。
「本に火をつける者は、いずれ人間をも焼くようになる」
というハイネの警句を持ち出さずとも、それが野蛮で粗野な行為であることは明らかです。
「いかなる問題もそれと同じ次元に立つ限り決して解決できない」
アインシュタインのこの言葉は真実であると私は信じます。
だからこそ、やはりぜひとも聞いてみたかったと思うのです。ロシアを愛し、その国の人と文化を知り抜いた万里さんが、いま何を語ったかを。
きっと、瞠目すべき分析や、未来につながる提案を目の前で詳らかにしてくれたでしょうが、それは叶いません。
そのため私は万里さんの本を片手に、斜め上からなどでない、地道な思索を続けようとしています。
それもまた、今は亡き人ともう一度出会い直せる、貴重な機会となるでしょうから。
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