人生の全てはタイミング
「人生はタイミングが全てだと思う」
私の友人がよく口にする言葉です。
けれど初めて聞いた時は、到底うなずけませんでした。それではあまりにつまらない気がしたからです。
人生がタイミングで決まるなら、自由意志は無意味なのか、努力は無駄であるのかとも感じました。
心理学では、意識は無意識をコントロールするものであると定義されます。
けれども現実はそうではなく、全ての人が意識的になど生きてはいない、人を真に動かしたり人生を左右するものは無意識とタイミングである。
精神科医である友人は、人間の意識や無意識にまつわる問題に取り組むうちに、そう考えるようになったそうです。
初めの頃こそ共感しかねたものの、私も次第にその考えを妥当だと思うようになりました。
これまでの自分の来し方を振り返っても、あるタイミングによって結果が左右されたことは、意外に多かった気がするからです。
たとえば私は二十代前半に、ユーラシア大陸最西端の岬にほど近い、とある街のホテルに勤めないかと誘われたことがあります。
そのホテルのオーナーは日本人女性で、私がホームステイや一人旅をするほど外国が好きだと知り、話を持ちかけてくれたのです。
「『ここに地終わり海始まる』の一節を聞いたことがある?その詩の碑のある、ポルトガルのロカ岬の近くの街。とても素敵な所だし、きっと気に入ると思うよ」
もちろん私はその話だけでもう現地に飛んで行きたい気分でしたし、誰に反対されても絶対にそこで働くつもりでした。
けれども詳しい話をしようと約束した日、私は急用で待ち合わせ場所に向かえず、数日後に再び約束した日は、先方の都合でお流れとなりました。
その人の日本滞在はごく短期間で、きわめて多忙なため、落ち着いて会える時間もなかなか捻出できません。
極めつけはその人が私に言付けてくれたというメモを受け取り損ねたことで、これはもう、いくら気がはやっていたとしてもわかります。
この話はこのまま進めるべきではない、というサインです。
これほどまでにタイミングが合わないことも珍しく、人智を超えた何らかの妨害が起きているようで、こんな場合、無理をしてもろくな結果にはなりません。
そのため、私はポルトガルへの旅程調べを終わりにしました。
今のところ私はまだ南欧を訪れたことはありませんが、もしその街をたずねたら、きっとほろ苦い気分になることと思います。
そこは、私が暮らせなかった街だからです。
一度はそこで生きる夢を見ながら、結局は実現しませんでした。
けれど、もしあの時に全てのタイミングが噛み合っていたならば、私は間違いなくそこへ向かっていました。
そうなると人生も私自身も、今とは様変わりしていたはずです。
私にとってのポルトガルのホテルのような出来事は、きっと誰の人生にもあることでしょう。
ふとそのことを回想し、もしも別の道を選べていたら、という空想に耽ることも。
そんな願望を現実化し、"あったかもしれないもうひとつの人生"を見せてくれるのが、ピーター・ホーウィット監督の映画『スライディング・ドア』です。
ロンドンに暮らす一人の若い女性を主人公とするこの物語では、まさに人生の成り行きはタイミング次第である、という事実がわかりやすく描かれます。
主人公はある朝、停車中の電車に乗るため地下鉄駅のホームを走り、どうにかその電車に飛び乗りました。また同時に、目の前でドアが閉じられ発車に間に合いませんでした。
このユニークな映画では、物語はAパターンとBパターン、地下鉄に乗れた場合と乗れなかった場合、二つのエピソードが並列して進んでゆきます。
彼女の人生はその瞬間をきっかけに全く異なる展開を辿るのですが、運命の分かれ道は、一本の電車に間に合ったかどうかだけ。
人生の全てはタイミングの産物だ、と確信できる理由はここにあります。
人は或る出来事の渦中でどう反応するかを選べるだけで、人生で起こる出来事自体は決して選り好みできません。
そうであるなら、降りかかる事物がいかなるものでも、それらをどうにか自分なりに活かしていくよりないでしょう。
そんな考えと覚悟こそが、タイミングを味方につける、他ならぬきっかけともなるようにも思えてなりません。