場中別段のお話有り
たとえばどこかのお店や電車の中など公共の場で、居合わせた人の会話が耳に入ってくることがあります。盗み聞きをするつもりも、聞き耳を立てているのではないにも関わらずです。
英語ではこんな状態を【overhear】というそうで、〈over-上から〉〈hear-聞く〉とは、つい最近、思い当たる出来事があったばかりです。
そこはクラシックの室内楽ホールで、私は客席のちょうど真ん中あたりに座っていました。
演奏プログラムは、モーツァルトとベートーヴェンの弦楽四重奏曲。それをさるオーケストラの管楽器奏者たちが、前後半にわたってじっくり聴かせてくれるというプログラムです。
私は開演前のコンサートホールのざわめきや高揚感が好きなため、いつも可能な限り早く会場に出かけては、座席でその雰囲気を楽しみます。
その日は土曜日の午後だからか、まだ開演までかなり時間があるというのに、半分ほどの座席がすでに埋まっていました。
私のすぐ前のシートにも、若い男性と初老の男性の二人連れが掛けています。
お祖父様とお孫さんかな、と特に気にもかけず手元の本に視線を落としていたところ、次第にそうではないらしいとわかってきました。
聞くとはなしに、二人の会話が耳に入ってくるからです。
二人は互いに敬語で話し、雰囲気は和やかながら、身内特有の距離感の近さはありません。
特に若い男性の方は、高齢の男性を何かと気遣っている様子です。
話しかけるにもゆっくりとしたスピードで、きわめて明瞭で聞き取りやすいその声は、自然な抑揚に富んでいました。
いかにも、何か人前で話す職業の方では、という印象です。
その人は会場を見渡しつつ、隣席に向かって話しかけます。
「若いお客さんは少なめですね。ウィーンではどうですか」
高齢の男性は自分も同じように周囲にざっと目をやりながら、のんびりとした口調で答えました。
「あちらも似たようなものですねえ。まだこちらの方が、年齢層が低いかもしれない」
「ああ。本場でもそんなですか」
「若い人ほど、わざわざ足を運んでまで音楽を聴くなんてことはしませんからね。"本場"でも」
「ぼくらの世界と同じです。クラシックも講談も変わらないんですね」
若い男性の返答が聞こえた瞬間、この人の話し方の特徴は、そのせいかと思い至りました。
お話から推測する限り、この人は講談に関わる人、それもおそらくは講談師さんで、張りのある声や他の人とはどこか違う口調も、そうであれば納得がいきます。
私は古典芸能全般に興味があり、講談や浪曲など、語りの芸もいくらかは聴いています。
子どもの頃を思い返すと、伝説的な浪曲師・広沢虎造の語りも家の中によく流れていました。父が大のご贔屓にしていたからです。
私としては浪曲より講談の方が性に合い、講談師初の人間国宝でもある一龍斎貞水さんの語りなど、幾度聴いてもその素晴らしさに打たれます。
こちらも人間国宝である義太夫の竹本住太夫さん同様、情と品格を兼ね備えた人間性がそのまま伝わってくるからかもしれません。
過去に小劇場での講談会に出かけた際、そこでは見る限り私が最年少の観客で、平均年齢も高めでした。
また、前方の席は一杯でも、後方となると空席が目立っていたのも思い出されます。
ですから、その講談師の男性が物思わしげな顔つきをしていたのも共感できました。
「講談もやはり大変ですか」
「はい。僕らの力不足で、なかなか思うようにお客様に来ていただけません」
そんな会話を聞いていると、思わずお話に割って入りたくなるほどです。
高齢の男性は普段はウィーンに住まいを構え、今は一時帰国中であることが会話からうかがえました。
もうお仕事も引退されているようで、ウィーンで気の向くままに文化的な愉しみを享受する生活など、うらやましいかぎりです。
お二人がどのような契機で知り合い、ここで肩を並べて四重奏曲を聴くこととなったのか、その経緯も知りたいと思ううちに、前半のモーツァルトの演奏が始まりました。
それぞれに技量の確かな奏者たちによる、ぴったりと息の合った演奏ほど耳に心地良いものはありません。
アレグロから始まりアレグロで終わる一時間弱の曲は、終わってしまうのが惜しいくらいに短く感じられました。
休憩時間中、高齢の男性はお知り合いの姿を見つけて席を立ち、講談師の男性は一人座席に残りました。
客席は後ろに向かってゆるやかな傾斜がついているため、私の斜め前に座るその人の手元も、期せずしてのぞき込むような格好になります。
男性は講談会のフライヤーの束を幾種類もクリアファイルから取り出しては真剣にためつすがめつし、何やらチェックに余念がないようでした。
私の想像ですが、この後ホールの責任者に掛け合ってそれらを設置する手はずをつけるか、どなたか有力者にでも配るのでしょうか。
文化芸術は生きていく上できわめて重要ながら、最も容易に切り捨てられ、整理されやすいものでもあります。
どんなジャンルであれ文化的な催しに人を呼ぶことは大変ですし、社会情勢的にも、その困難は年々増していることでしょう。
特に講談をはじめとした古典芸能は、より一層の厳しさがあるのは容易に想像できます。
芸を磨く努力のみならず、講談界の発展自体にも尽力する姿を見て、その講談師さんのことも心から応援したくなりました。
いくら自然に聞こえてきたこととはいえ、そこまで人の話に入り込むのは、決して褒められたものではないかもしれません。
けれども講談師さんという、普段の生活ではまず知り合う機会のない人の近くに座り、裏舞台に少しながら触れられたのは思いもよらぬ経験でした。
まさに〈overhear〉による得難い機会そのもので、典雅な演奏会の記憶に、もうひとつ忘れ難いおまけがついたのは言うまでもありません。
これもご縁と考えて、次は講談会へ足を運んてみるのも良い気がします。
あの講談師さんが高座に座り、張扇片手に、生き生きと語る姿が見られるかもしれませんし。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?