『ポストカード』あるいはほんの少しのユダヤ人
どうしても捨てられない過去があるなら、その過去は復元されねばならない。
── ルイーズ・ブルジョワ
読書記録。
アンヌ・ベレスト著『ポストカード』
フランスで2021年、日本語版は2023年8月に発行されたばかり。
訳者の田中裕子さんは〈あとがき〉にこう書く。
「モディアノの『1941年。パリの尋ね人』を原書で読んで以来、ホロコースト作品(とくにフランスの)に魅入られるようになった訳者から見ても、本書は稀有な魅力を持っている」
私もユダヤ人とナチスドイツにまつわる物語を数多く読んできたけれど、このノンフィクション小説は相当に珍しい部類に入る。
事の起こりからしてミステリアスで、著者の母親の元に、ある日、差し出し人不明の絵葉書が届けられる。
書かれていたのは四つの名前のみ。
それは祖母の両親ときょうだいの名で、皆、戦争中に殺された人たちだった。
強制収容所のガス室で。
著者はフランスに住み、フランス語で本を書く“いかにもフランス女性そのもの”の人であり、自分がユダヤ人の血を引いている事実と上手く折り合いがついていない。
けれどもポストカードの差し出し人を探すため、家族内で唯一ホロコーストを生き延びた祖母の人生を辿るうち、過去と現在に新しい意味を見出してゆく。
想像と現実を織り交ぜた話を読み進みながら、私自身もその謎や恐怖、発見と喪失の世界に落ち込んでいくようで面白かった。
面白い、という表現には語弊があるけれど、もうひとつの人生を生きるかのような臨場感の前では、やはりその言葉を使うしかない。
つい最近、哲学者ジョルジュ・ディディ=ユベルマンがアウシュビッツの“ゾンダーコマンド”について書いた二冊の本を読んだばかりのため、余計この物語が身に迫って感じられたのかもしれない。
ゾンダーコマンド。ガス室での死体処理を命じられていた特殊部隊。
“同胞の殺人に手を貸すことで生き延びていた”彼らが、監視者のほんの一瞬の隙をついて、地獄の光景をフィルムに収めた。
大量殺戮の現場を記録した、世界に現存するただ四枚の写真。
私はそのあり得ない業績についてのドキュメントを読み終えたところだった。
この『ポストカード』に登場する人々も、そこに結び付けられている。
たとえどれほどの時間が経とうが、決して癒えない傷があり、古傷はさらに抉られ、新たな血が流されていることを、著者の実体験が詳らかにする。
「ユダヤ人とは、“ユダヤ人とは何か”と自問する者だ」
こう書いた著者の言葉を受け、訳者はさらに思考を広げる。
「外見、言語、国籍、生活スタイル、信仰を問わず、ユダヤ人とは何か、なぜ人間が人間を迫害するのか、を考えつづけるとしたら、もしかしたらその人はすでに少しはユダヤ人なのかもしれない」
私がホロコーストにまつわる本を読み、映画を観続けているのも、私自身が“少しはユダヤ人”だからなのだと思う。
ドイツやポーランドの地を実際に訪れたことはなくとも、数十年前、そこで起こったことについて書かれた本を、おそらく優に百冊以上は読んでいるはず。
決して愉快な内容ではなく、その悲惨な記述に愕然とし、血が冷える思いがするにも関わらず。
きっと私は、そこに何らかの答えを見つけようとしてきたからだ。
生きるとは。真の人間性とは。善と悪とは。人が持ち得る最大限の勇気と高潔さとは。
息を詰めてページをめくり、綴られた文章を追いつつ、それらの事実や物語の中に入り込む。
想像力の限界を超える所業、その場所、そのような極限の中でしか見つけられず、理解もされないことは存在する。
この本を読むことで、またひとつ、自分が欲していたものの輪郭に触れたと思う。
けれどもそれを言葉で言い表すことはまだできない。
あまりに生々しいため素手で触れることは不可能で、もっと時が経ち、それが固まるまで待たねばならない。
表層的なものの奥にある理解は、しばしばそのようにしてごく緩慢に立ち現れる。
やがて物語は落ち着くべきところに収束し、いかにもあっけなく、唐突に答えがもたらされる。
戦後何十年も経ち、当事者たち全員が亡くなった後になって、誰が何のため、謎めいた絵葉書を送りつけてきたのか。
謎を解く鍵は祖母の人生の中にあり、本の最後も、祖母が人生の最期に口にしたという言葉で締めくくられる。
「わたしが忘れるわけにはいかないの。じゃないと、この人たちが生きてたことを覚えてる人が、誰もいなくなっちゃうから」
この驚異的な実話を公にしてくれた著者に感謝の念を抱きつつ考える。
これは必ずしも過去の逸話ではないのだと。
当時がそうであったように、人知れず水位が上がり、やがて社会全体が転覆するほどの危険水域に達する事態は、どの国でも起こり得る。
二度とそのような顛末を迎えぬよう、私たちは心して目を開き、耳を澄ませていなけれはならないのだと。