だれかの目で見る世界
「キキ、君の目は美しい。その美しい目を通して見る世界は、どれほど美しいことだろう」
画家モイズ・キスリングが、モデルのキキ・ド・モンパルナスことアリス・プランに贈った賛辞です。
世界中のアーティストを惹きつけ、あらゆる芸術が花開いた1920年代・ベル・エポックのパリにおいて、二人は〈帝王〉と〈女王〉と呼ばれました。
キスリングは、アメディオ・モディリアニ、マリー・ローランサン、藤田嗣治、マルク・シャガール、モーリス・ユトリロなど、現代でも多大な影響力を持つ画家たちのうち、最も大きな成功を収め、キキは単なる一介のモデルではなく、新たなカルチャーの発信源であり、芸術家たちに尽きせぬインスピレーションを与えるミューズでした。
アーネスト・ヘミングウェイが「一度たりともレディであったことのない女王」と讃えたキキを、キスリングは繰り返しモデルに描き、ここにあげたライラック色のスカーフとローズ色のセーターをまとった彼女の姿は、えもいわれぬ神秘性を感じさせます。
キスリングがキキに告げた言葉を、私は長いことロマンチックで詩的な表現に過ぎないと思っていましたが、実は瞳の色が違うだけでも見える世界は微妙に変わり、濃い黒、鳶色、青、緑、エリザベス・テイラーのようなすみれ色では、それぞれ周囲の景色は異なって映るそうです。
そんな生体的な部分から生じる違いも気になりますが、知的、あるいは精神的にも、見る人によって世界が全く異なるのもまた、面白いものです。
その良い例といえるのが、YouTubeのゲーム解説動画『ゲームさんぽ』シリーズでしょう。
各ゲームのプレイ画面を視聴者に見せる、というところまでは一般的な番組と同じながら、変わっているのは、プレイヤーが皆なにかの専門家だという点です。
弁護士、精神科医、気象予報士、古代ギリシア研究家、ボディービルダー、お米ソムリエ、CGクリエイターなど、多種多様な分野のスペシャリストが、ゲームの世界を独自の視点で読み解いていくのです。
だからたとえば、“どこかの街中をただ歩く”という場面でも、人によってまるで注目するところが異なります。
ある人は建築物に言及し、ある人は顔の表情に、ある人は筋肉の動かし方、ある人は雲の流れ、ある人は洋服に寄ったシワの表現、といった具合に、ひとつのシーンだけで数えきないほどの切り口が存在します。
えっ、それってそんな意味があったんだ。うわ、すごい深読み。などと感動しつつ観ているうちに、それぞれの視点の独特さと深さに釘付けになり、自分に見えている以上の世界が、目の前に重層的に広がっているのに気づきます。
『ゲームさんぽ』がコンセプトに掲げる〈世界の見え方の違いっぷりを学ぶ〉そのままに、人の数だけ違った見方、捉え方があること、物事の多面性のほんの一面だけを見て、それが全体だと勘違いすることへの危うさにも思い至るのです。
ただゲームの進行をを追い、関心したり面白がっているうちに、何がしかの知見や学びまで得てしまうという、素晴らしい仕掛けだなと感じます。
もうひとつ、似た話では、帰国子女の方から聞いた「イギリスの小学校では、ずっと演劇の授業を受けていた」というものがあります。
その学校では、一年生から即興演劇のクラスがあり、そこで“他人になりきる、他人の人生を生きる”ことを学んだそうです。
ディベートも、時には正反対の側に立って話す、という点で似たものがあるでしょうが、演劇のように、その瞬間、自分を無くして別の人として生きる、というインパクトには敵いません。
その方も「演劇の授業は、他の人に対する想像力を持つために最も良い方法だと思う」と話していました。
多様性。思いやり。やさしさ。調和。
耳ざわりのいいこれらの言葉だけを唱えても、その実現を個人の資質や努力に任せるだけでは、すぐに限界が訪れそうです。
それよりも、もしそれらを現実のものにしたいなら、積極的に他の人の目で世界を見る、という機会や試みが不可欠です。
私たちは自分以外のものには決してなれませんが、もし他の人ならば、という想像力を持つことで、ものの見方や捉え方、目の前の人と事象への対し方、やがては世界まで変わっていく、というプロセスが進むかもしれません。
「世の中には、お前の哲学では及びもつかないことがあるのだよ、ホレイショー」
『ハムレット』で、シェイクスピアはそう書きましたが、束の間、自分の外に出ることが、もっとこの世界を知る、ささやかなきっかけとなるように思います。