趣味はジャンピング鑑賞
一杯の茶のためなら、世界など滅びていい。
─── フョードル・ドストエフスキー
そうですね、ドストエフスキーさん。
私も時々そう思います。特に心か身体、あるいは両方がひどく疲れた時には。
そんな風に言いたくなるほど、温かな一杯のお茶の魅力を私もよく知っている気がします。
とはいえドストエフスキーが書いた『地下室の手記』の中でのこの一節の使われ方は、到底うなずき難いものがあります。
作中で主人公は、自らの安寧の代わりに1コペイカで世界を売り飛ばしてやる、いつでも望み通りに茶が飲めるなら世界の滅亡も望むところだ、と言い放つのです。
これは共感も萎む思想ですが、実はこの言葉の原点は、作者本人の実体験によるものだとも言われています。
19世紀のロシアは皇帝の世であり、これに異を唱える者は容赦なく断罪されました。
それゆえ社会主義サークルに属していたドストエフスキーも危険分子とされ、反逆罪による逮捕の後、死刑宣告がなされます。
その後の紆余曲折を経て辛くも生命は繋いだものの、シベリア流刑のため、ドストエフスキーは帝都サンクトペテルブルクからシベリア・オムスク市まで、極寒の中を追い立てられて行くのです。
その道中の宿で主人の温情から熱い紅茶が振る舞われたことがあり、それが先の一文の元になったといいます。
それならば、その言葉の意味するところも腑に落ちます。
その一杯は、"世界"すら超える救済を感じさせたに違いないからです。
ドストエフスキーは生涯にわたって紅茶を愛し、ロシアで一般的なサモワール(ティーサーバー)を使って淹れた、特別に濃いお茶を好みました。
私はサモワールの実物を目にしたことはありますが、実際にそれを用いた紅茶の味わいは知りません。
私が普段使うのはガラス製の丸いティーポットであり、これには特別な理由があります。
ジャンピングを余すことなく眺めるためです。
同じく紅茶好きなら微笑んでくださるかもしれませんが、そうでない方にとっては、紅茶とジャンプに何の関係が?といったところでしょうか。
ジャンピングというのは紅茶の専門用語で、ティーポットに熱湯を注ぎ入れた際、茶葉が上下に勢いよく動く現象を指しています。
その様がまるでお湯の中で茶葉が飛び跳ねているように見えることが名前の由来で、上手くするとこのジャンピングは5分間も続くのです。
ただしこれは激しくお湯を注げば実現するというものではなく、その証拠にどれだけ高い位置からお湯を注ぎ入れても、茶葉は上部に集まるだけですぐに静止してしまいます。
ジャンピングは茶葉が水の中の酸素に触れることで発生する運動であり、そのためにはお湯の勢いよりも、温度、茶葉の鮮度、ポットの形状などが最重要です。
他にもいくつかの細かな条件と手際の良さが必要なため、どうチャレンジしても上手くいかない場合もあるようですが、だからといってそのお茶に価値がないとか、味に大差がつくということはありません。
紅茶の専門家の中にも、まるでこの現象を重視しない人がいるくらいですから。
それでもジャンピングがうまくいくと心が弾み、何より視覚的に大きな愉しみを得られます。
私はこれを存分に見たいがためにガラス製のポットを選んだほどで、その眺めはまるでスノードームをのぞき込むかのごとくなのです。
次第に濃さを増す琥珀色のお湯の中で無数の茶葉が浮いては沈みを繰り返し、軽やかに動き回る様はといえば、風にあおられた木の葉が自在に宙を舞うかのようです。
くらげやクリオネの水槽の前で立ち尽くす人たちに似て、毎回のお茶の度に現れるこのファンタジックな眺めに、私は飽きることなく魅了されます。
いっそティーセット一式を携えて風光明媚な土地を巡り、絶景を背景にしたジャンピング動画を撮りたいと思うほどです。
こんなことを誰かに言うたび笑われますが、素晴らしい味わいのみならず、癒やし効果たっぷりの景色まで味わえるとあっては、つくづくお茶のありがたみを感じずにいられません。
そして、そんな幸福を語るうちに文字数を使いすぎ、本来書くはずだった〈ティーポットと流体力学〉についてはかすりもしない脱線ぶりとなりました。
論文まで上梓された風変わりで有益なこの研究について、あらためてお話しできる機会があれば良いのですが。
それでは、そろそろお湯も湧きそうですし、ポットの中で踊る茶葉を眺めるべく、お茶の準備にかかりたいと思います。