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プラジュニャーパーラミターフリダヤ

「超スゲェ楽になれる方法を知りたいか」
ええ。いいですね。

「誰でも幸せに生きる方法のヒントだ」
そんなものがあるのなら、ぜひ。

「もっと力を抜いて楽になるんだ。苦しみも辛さも全てはいい加減な幻さ、安心しろよ」
そうなんでしょうか。

「この世は空しいモンだ、痛みも悲しみも最初から空っぽなのさ。この世は変わり行くモンだ。苦を楽に変える事だって出来る」
すごい。どこかの哲学者みたい。

「苦しみとか病とか、そんなモンにこだわるなよ。
見えてるものにこだわるな。聞こえるものにしがみつくな」
けど、それってかなり高度なことでは?

「味や香りなんて人それぞれだろ?何のアテにもなりゃしない」
確かに。

「揺らぐ心にこだわっちゃダメだ。それが〈無〉ってやつさ。生きてりゃ色々あるよ。辛いモノを見ないようにするのは難しい。でも、そんなもんその場に置いていけよ」
理想的だけど、やっぱり私には難しい気がします。

「正しく生きるのは確かに難しいかもな。でも、明るく生きるのは誰にだって出来るんだよ」
明るさってそんなに大切?

「生き方は何も変わらねえ、ただ受け止め方が変わるのさ。心の余裕を持てば誰でもブッダになれるんだぜ」
できるならそうなりたい。

「この般若を覚えとけ。短い言葉だ」
えっ、理解できるかな。

「意味なんて知らなくていい、細けぇことはいいんだよ。苦しみが小さくなったらそれで上等だろ」
それって本質的ですね。

「嘘もデタラメも全て認めちまえば苦しみは無くなる、そういうモンなのさ」
まず向き合うこと、か。

「気が向いたらつぶやいてみる。心の中で唱えるだけでもいいんだぜ」
はい。ぜひ教えてください。

「心は消え、魂は静まり、全ては此処にあり、全てを越えたものなり」
ああ、何だかとても深遠なことを伺った気がします。

「悟りはその時叶うだろう。全てはこの真言に成就する」
私のような者でも?

「心配すんな。大丈夫だ」
・・・ありがとうございます。


ちょっと遊びすぎだと叱られるかもしれませんが、この”対話”で私と話しているのが誰か、見当がついたでしょうか。
経文自体を知っていたり、勘のいい方ならわかるかもしれません。


三蔵法師の名でも有名な玄奘げんじょうが、インドより中国に持ち帰った『大般若経
それはサンスクリット語から漢語へと翻訳され、約600巻にまとめられました。

その600巻のエッセンスを、わずか262文字に落とし込んだのが『般若心経』です。


そこには仏教の真髄ともいえる叡智が凝縮され、天皇家から庶民まで、あらゆる立場や階層の人たちにより、古くから読み継がれてきたのは周知の事実です。

そうなると当然、各時代や土地ごとに様々な解釈が生まれ、中には私がここでお目にかけたような”ロック調・般若心経”なるものも存在します。


いつ誰の手によって作られたものか不明のこのバージョンは、ずっとインターネットの海を航海しているようです。

前々から見知ってはいたものの、最近また私の立つ岸辺にも打ち寄せられてきたため、うまくすれば会話のようになって面白いのでは、と思いつきました。


そこで元の文章に合いの手を入れる形での”ロック調・般若心経/対話篇”となったわけです。

遊び心で試してみると思った以上にすらすらと進みましたし、話もきちんと噛み合っています。
原典そのものに手を加えることはタブーですが、敬意を払いつつ色々な解釈で親しもうとするのは、大いに有りだと私は考えています。


般若心経は"日本で最も人気のあるお経”だといい、おそらくその簡潔さも理由のひとつでしょう。何せ、全文を音読しても、三分とかからないコンパクトさです。

あらゆる聖典と同じく、般若心経も読んだ分だけ徳が積めるそうですし、日常のルーティンに組み込まれ、心易く口ずさめるのは良いことです。


この有り難さに満ちたお経を読む時、注意すべきことはたったふたつだけだと、ある山寺の山主様からお聞きしました。
ひとつは、一言一句に至るまで、決して言葉をたがえないこと。

対話にもあったように、このお経は意味がとれずとも声に出して唱えることが大切であり、それはつまり、それだけ"言葉"と”音”そのものが重要である、ということを示唆しています。


ゲームや映画におけるファンタジー世界では、魔法の呪文は、少しでも間違えれば効力を発揮しません。それと全く同じです。

そのため山主様は、たとえ全文を暗記していたとしても、読経の際には経文を手元に置き、落ち着いて正しく読んでほしいとおっしゃいました。

なおかつ、その際には笑顔も肝心です。
これは、ふたつめのポイントに当たります。


こちらも山主様いわく
「お経を読んでいる方のお顔が、真剣すぎて怖いとか、険しい、厳しい、ということはままあります」

ありがたい教えを無碍むげにしないという意気込みゆえであったとしても、それはもったいないないことであるそうです。

「読経すれば、神様仏様に必ず届きます。けれど、それを読む人間が、見るからに不幸せそうにしていたらどうでしょう。
お経には何が書いてありますか?いいこと、幸せになることしか書かれていませんよね?
だったら、お経を読む時には、にっこり笑って、明るい、楽しい気分で読みましょう」


私は自分を宗教的な人間だと考えますが、特定の宗教には帰依していません。
それでも、あらゆる宗教には良く生きるための教えが詰まっていることは絶対ですし、その意味でも般若心経は折に触れて読み返し、読経用の可愛らしいアプリまでインストールしています。

昔ながらの経本に書かれたスタンダードなものではなく、ロック調、方言、マンガ、アプリであっても。
それぞれに合ったやり方で、誰もが叡智にアクセスする足がかりを持っている。

聖典とのつき合いにおいて、それが最も幸福なことかもしれません。



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