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物語は置き薬

私が人生を知ったのは、人と接したからでなく、本と接したからである

アナトール・フランスの言葉を知った時、思わず笑みが浮かびました。

なぜならフランスは、一言一句が星のような美しさをたたえた『エピクロスの園』の中で、人間はあまりに本と幻想を好み過ぎ、現実を生きていない、と苦言をていしていたからです。


それでも、私は彼の言葉を全く自分のこととしてうなずけますし、かつての自分が、まさにそうであったと言い切れます。

人付き合いの基礎を学ぶ年齢は、幼少期からおそらく十代半ばくらいでしょうが、私はその大切な時期の大半を、一人きりで過ごしました。
それは病のためであり、おまけに場面緘黙症で、人との意思疎通がほとんど叶いませんでした。

余命宣告をされた年齢も過ぎ、どうやら人生はこれからも続くらしい、と悟った時、自分がいかに人と付き合う術を知らないかに気づいて絶望しました。
挨拶の仕方、あいづちのタイミング、微笑み方、話しかけられた時の返事、人への呼びかけ、ものの尋ね方。
こんな簡単なことが何もわからなかったのです。

接する相手をしょっちゅうのように絶句させ、笑わせるなど、見当違いな言動を重ねていたのは私の黒歴史です。


ただ、そんな中で唯一有利に働いたのは、私がその頃までに浴びるほど読書をしていたことです。

きっと同い年の誰よりも、多くの本を読んでいたことと思います。何せ、外出できず、付き合う相手もいない私は、有り余る時間の全てを読書に注ぎ込んでいましたから。

自分では読み返すのも恥ずかしい、ごく初期のnoteにもそんな話を書いていますが、本を読むことは私の生命線でした。
酷いめまいや苦しさがない限り、何冊もの本を枕元に積み、活動的で忙しい人が敬遠するような、重量感ある物語ばかりを好んでいました。


ところが思いもかけず、いざ外に出て人と接する際に、それらは極めて役に立ってくれたのです。

古代ローマの賢帝マルクス・アウレリウスの『自省録』は、その内容がそっくりそのまま、現代にも通用します。
それくらい、人間ははるか昔から変わっておらず、時を経て残る物語であればあるほど、その汎用性はとてつもなく高いのです。

だから私は様々な場面で物語を自分の経験であるかのように応用し、そこで得たものを拝借することで、ようやく "人並み" に近づけました。

病み上がりであらゆる経験値がゼロの私が、皆と変わらないような顔をしていられたのも、ひとえにそれまで触れてきた物語のおかげです。
その疑似体験が、あまりにも人馴れしていない自分を支え、どうにかやっていける助けとなってくれました。


そんなことを思い出したのは、つい最近、知人の古くからの友人だという、ある女性の苦境を知ったからです。

その女性は地方の旧家の出身で、早くして亡くなったご両親から、広大な土地と家屋を相続しました。
ところが高すぎる相続税や親族間でのいさかいのため、邸宅を売りに出して現金化するようにと方々からせっつかれ、ついには突然昏倒し、病院に緊急搬送されたというのです。

その人のご家族や私の知人も、いっそ土地と邸宅を手離しては、と前々から勧めていたそうですが、その人は思い出の詰まった家をどうしてもあきらめきれず、病に倒れてまでも、その意見に抗っているというのです。

聞いた瞬間、私は思わず声を上げていました。
「まるで『桜の園』みたいな話!」


『桜の園』とはアントン・チェーホフの戯曲で、没落していく我が身の境遇を直視できず、ついには家屋敷の全てを失ってしまうという一家の悲劇です。

まだ手の打ちようがある間に動くことが出来ないばかりに、結局は最悪の結果を招いてしまう桜の園の主人ラネーフスカヤに、その女性は酷似しています。

果たしてその人が『桜の園』をご存知か、知人によると、おそらくは未読だろうということですし、たとえ読了していたとて、それで問題が解決されるわけではありません。

けれども、自らと同じような立場のラネーフスカヤの姿には、きっと何らかのヒントがあるはずです。

演劇の題材になるくらい、こういった話はありふれているのだという諦観や、主人公一家への同情、あるいは冷笑。
それらはきっと、今の自分が置かれている状況をかんがみて、自身を俯瞰で眺める助けになるはずなのです。


人生に物語ほど有益なものはない、と私が思うのはそこにつきます。
古今東西の物語には、この世で起こり得るあらゆる出来事のモデルケース、サンプルケースがぎっしりと詰まっています。

それは生きる上での案内図です。

一見うまい話に思えるものの陰に潜む落とし穴、あらゆるタイプの人間やその振る舞いについて。
深い真理や貴重な知見を、いくらでも手に入れられます。

たとえそれが "絵空事" でも、そこで揺さぶられる感情は本物ですし、自分が決して体験できない人生を生き、人の何倍もの経験が積めるのです。


もちろんご本人がその気なら、今から『桜の園』を読んでも少しも遅くはないのですが、それには平常時よりも努力や気力が必要です。

たとえば体調を崩した際、自分で薬局に行き、無数にある薬の中から、症状にぴったりくるものを選ぶのは大変です。
いざそうなる前に、あらかじめいくつかの薬を買い、頭痛ならばこの薬、筋肉痛には、寒気には、と自宅の薬箱に備えておく方が簡単です。

それはそのまま人生にも置き換えられ、物語の "在庫" をストックしておくことは、いざという時に役立つ処方薬を持っているのと同じです。
辛い時、その薬を取り出して飲んだなら、早く楽にその状況を切り抜けられるかもしれないのです。

しかも薬の種類は多いほど便利で役立ち、本や映画、舞台芸術を通して多くの物語に出会うことは、極めてためになるのです。
これまで物語の置き薬に散々助けられてきた私が言うのですから、間違いはありません。


そのうえ物語は、ハウツー本の文章と違って忘れ辛く、心の奥底に食い込みます。
村上春樹さんの言葉を借りるなら「物語だけが長持ちする」というところでしょうか。

最後に、旧い格言をもうひとつ。

日の下に新しきものは無しNihil novi sub sole







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