自分の世界の中心は『毒親』という名の両親だった話。

あくまでもそう自覚した段階での話ではあるが、とにかく生きづらいという感覚はすでに小学校高学年の頃から始まっていたと思う。

ぼんやりと学校の校舎裏の外庭を延々と眺め続けていた時だっただろうか。

ふと死にたいと思うようになった。

昼放課(給食後の休み時間)は、児童たちは基本的に外で元気いっぱいに遊んで楽しむものだが、私はいつしかそんな気力すらなくなっていたことに気付いた。一部の不良集団を除けば、同じクラスの学友とは仲が良く、他のクラスにも友達はそれなりに多くいたと思う。

だが時折、何もかもが嫌になり一人で閉じこもって消えてしまいたくなる時があった。友達と遊んでいる時、授業中、部活中、自暴自棄によく似た感情は急に私を襲った。

同時に、どうやったら人が死に至るのか興味を持つようになり、その方法を調べたりと、希死念慮も明確なものになってきた。

学校でいじめにあっているわけでもなく、学校が嫌いなわけでもなかった。

原因は、両親だった。家に帰れば暴君の父親とヒステリック傾向のある母親がいる。

今考えればおかしな話だが、決して尊敬できるような存在ではなかったはずなのに、自分の世界の中心は、両親だったのだ。

父親は小学校の教師だった。母親はパート主婦。私が生まれる以前の若い頃は銀行員だった。

父親はとにかく手をあげて、私を殴った。人よりも要領が悪い私に対し、学校での試験の結果が悪いと顔が腫れ上がるまで殴り続けた。

そして言葉の暴力で何度も私を傷つけ、お前のような出来の悪い奴に学校の教科書なんぞいらない、勉強する資格などないと言われ、ビリビリに破られたこともあった。

おそらくは、教師家庭で育った子どもには稀に見られる光景であったことだろう。つらいのは私だけではないはず。教師を親に持つ子どもならば十中八九こういう仕打ちを通過儀礼として受けながら育っていくものなのだろう。

教師を親に持った者の宿命なのだ、そう考えることにして必死に誤魔化して学生時代をやり過ごしていた。

そうは言ってもやはり、毎回のように殴られ、時には鼓膜が破れ、病院へ行くなどの行きすぎた体罰もあった。今の時代ならば確実に虐待で通報ものだろう。

学校の担任も気づいていたはずだ。毎回顔を腫れあがらせた悲惨な状態で登校してくる私を見て、いったい家で何が起こっていたのか、気づいていないはずがない。

しかし声を上げる勇気などあろうはずがなかっただろう。しかもあの時代は体罰礼賛主義。子どもというのは大人たちが殴って叩いて社会の厳しさというものを教え込み、そこで根性を磨いて育っていくものだという意識が根付いていた時代だった。

そしてそれ以上に、私の小学校時代の担任教師が、自分の立場を顧みず、人様の家庭の問題に口を出すだけの慈悲のある人間性の持ち主であったとは到底思えない。

鼻からそんな大人を頼る気もなかったので(当時の私の頭では考えが至らなかったというのもあるが)自分が受けている仕打ち、もとい虐待について誰にも助けを求めることができず、ただただ耐え続けるしかなかったのだ。

お前のような無能は社会のゴミだ、お前のような奴は死んだほうがいい、と実の父親に罵声を浴びせられる毎日。

私が一体何をしたというのだろう。ちゃんと毎日学校へ行って授業を受けて欠かさず宿題も提出しているというのに。試験の結果がふるわないのは残念な話であるが、激しい暴力を受け、ここまで言われなければならないほどに悪いことなのか。生きている価値がないと言われてしまうほどに。

あまりにも殴られすぎたために、軽い脳震盪を起こしつつ、今にも意識を手放してしまいそうな頭で必死に考えを巡らせるが、分からなかった。

心の中は当然、父親に対する恐怖と憎悪で満ちあふれていた。

殴られるたびに、必死に叫んで母親を呼んだが、母親は助けてくれなかった。

父親が激怒して私に暴力を加える時は必ず母はそこにはいなかった。

母は私の方へ見向きもせずに、幼い弟を連れ出し、その場から離れていくのだ。

父親に対する底なしの憎悪、母親に対する深い失望感。この二つで私が構成されていると言っても過言ではないだろう。

ひとしきり殴ったあと、別人のように腫れあがった顔で、泣き叫びすぎてガラガラの声で許しを請う、ほとんど瀕死の状態の私の姿を見るとようやく気が済むのか、父親は別人のように優しげな顔に変わる。

その表情のまま、父親は一言『もういい、次頑張って結果を出すなら許してやる。さっさと風呂入って寝ろ』

その地獄のような繰り返しの日々がこの先延々と続いた。

子どもは親がいなければ生きてはいけない。お前は自分たちがいなければこの社会で生きぬくことはできない。その恐ろしい呪縛を実の親にかけられ、今日に及ぶまで、私の深層心理に深く根を張るに至ったのだ。

今度は母の話に移ろう。

母は先ほども述べたように、とにかく臆病者だった。

殴られて助けを求めている私を何度も見捨てた女だった。一度だって助けてくれたことはなかったと記憶している。これは強烈だった。

子どもにとって母親の存在は父親とは比べ物にならないぐらい大きな存在なのだ。

すべての邪悪なものから子どもを守ってくれるような優しくて強い母親神話など私の家庭には無縁の話だった。

母は父親から私を救うだけの勇気がなかった。

あの時点で私の存在など地に落ち、捨てられたも同然だった。

あのとき助けなかった理由をあとでいくら言い訳してこようとも、母親が私を助けなかった事実には変わりない。

自分可愛さに父親から逃げたのだ。まだ幼い弟がそばにいたが、弟を守るために、私の方を切り捨てたということにもなるのだろう。

それでも私は母が大好きだった。何かあるたびに感情的になって父ほどではないが手をあげることも多々あったが、基本的に優しかった。

しかし時が経つにつれて、母親の本質が見えてくるたびに私は母親を心の中で否定するようになった。

母は体裁を気にするので、建前ではあるが他人にも優しさを見せる。

しかしこのうわべだけの優しさが厄介だったのだ。慈悲をもって相手に接するのは結構だが、その時の感情だけで動くので、気持ちが持続しない。つまり、相手に飽きたらほったらかし。

自分に優しく甘い言葉をかけて上手い蜜を吸いに来るようなずるい人間にはいい顔をして、厳しくても深い愛情を持った人間には激しくつらく当たるのだ。

耳触りのいい言葉を吐かれれば誰だっていっときは気持ちがいいだろう。それが建前でなんの真実もないということに、母は気が付いていない。その時の感情に身を任せる人なので頭でものを考えるという習慣がついていないわけだ。

だから、しばしば他人に騙され泣きを見る。

一方で、一見厳しく甘えを許さないような言葉をかける人たちの中にある本当に相手を思う気持ちを汲み取ることができなかった母は、なんて冷酷な人間だ、思いやりを持て、とその人たちをなじった。

要は、母親は壊滅的に人を見る目がなかったのだ。

人を自分の支配下に置いて安心したい父親と美味しい話だけを無償で提供してくれる人を好む母親。うまくいくわけがない。

二人とも自分勝手で自分が一番好きな人間たちなのだ。そりが合うはずがない。

還暦を超えた今でもしょっちゅう離婚に及ぶような夫婦喧嘩をして、周囲を困らせています。

この先自分自身がどうなるかわかりませんが、なんとなくバックグラウンドを知っていただけたでしょうか。

アダルトチルドレンの行く末がどうか明るいものでありますように。

※修正加筆するかも

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