映画「月」を観てきた
映画「月」を観てきた。
とてもとても重いテーマを扱った作品だった。
それは、観る前からわかっていて、正直、観るのが怖かった。
水曜日に映画館へ行くことは決めていて、本当は「キリエのうた」を観たかったけれど、上映時間が合わず。。
ディカプリオ主演の「キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン」も気になったが、こちらも上映時間が長すぎる。
それで、覚悟を決めて「月」を観ることにした。
この作品の監督が私の好きな映画「舟を編む」の石井裕也監督だということや、磯村勇斗くんが出演していることも、その後押しになった。
「観るのが怖かった」と言った理由は、この作品が数年前に障害者施設で実際に起こった事件を題材にしていることを知っていたから。
事件のことはもちろん知っていたし、衝撃的なニュースとして記憶している。ただ、いつの間にかその記憶も薄れてきてきてしまっている。
そんな私が、この作品を受け止めることができるのだろうか。
けれど、観終わった今、やはり観て良かったと思っている。
問題作と言われていようが、こういう作品は必要だと感じた。
私なんかが感想なんて書くのもおこがましいけれど、観てきた記録として少し残したいと思う。
まず、この作品の主な舞台となっている施設のシーンが、とにかく薄暗くて、冷たい印象を受け、最初はまるでホラー映画を観るような感覚に近かった。施設への道も暗く、そこにも不気味さを感じる。
この障害者施設は深い森の奥にあり、隠されている。
「月」には、光のあたらない、裏側がある。
この障害者施設の現実、キレイゴトで隠されていた部分。
ほとんどの人間が、臭い物に蓋をし、見えないふりをしているのではないか。
それは、この障害者施設での出来事だけではなく、社会のあらゆる闇の部分について言える。
そんなことを、この施設で働く小説家志望の陽子(二階堂ふみ)は、主人公である洋子(宮沢りえ)に、まっすぐに突き付ける。
そして映画を観ている私たちにも。
もう一人の若者、あの事件を起こした人物がモデルとなっている、さとくん(磯村勇斗)もまた、洋子を通して私たちに問題を投げてくる。
洋子は、彼の考えを認めないと言いながら、自分自身にも問う。
そして、私も自分に問うてみる。
彼なりの正義というものを、完全に否定することができるのか?
人間とは何か?生きることの意味とは?
この作品は、障害者施設の事件だけで話が進むのではなく、主人公夫婦の日常や抱えている問題などを軸としたストーリーもからめている。
施設での出来事だけを描くのではなく、こういう形で作られていることで、より自分事として問題を捉えることができるのではないだろうか。
宮沢りえとオダギリジョーが演じる夫婦。私は少しだけ感情移入してしまい、切なさや苦しさを感じながらも、愛おしくも思えた。
それから、この映画の主な登場人物4人を演じる俳優陣について。宮沢りえ、オダギリジョー、磯村勇斗、二階堂ふみ、4人ともさすがと思える演技だった。演技という言葉を使っていいのかもわからないぐらい、その人物に溶け込んでいた。
磯村勇斗くん、こういう狂気を持った役も上手い。「きのう何食べた?」のジルベールとは印象が全く違う。このギャップが彼の魅力でもある。
公式サイトで石井裕也監督が、こうコメントしている。
私が観るのに覚悟を決めたように、この映画を作った人たちもみな、覚悟を持って臨んでいたのだろう。
この映画に関わった人たちの熱を、私なりに受け止めることができたのではないか、なんて思っている。
この映画はエンタメとして楽しめる作品ではないし、誰にでも勧めたい作品というわけでもない。
それでも、私にとっては観て良かったと思える作品である。
そういえば、石井裕也監督の「愛にイナズマ」もまだ観ていなかった。
「月」とはまったく異なるテイストの作品のようなので、こちらもまた楽しみ。