なかなかなものですよ
大学2年の冬だった。私は大学の文学部の学生だったので、書道の授業をいくつか選択していたのだが、外部からいらっしゃるご年配の書家の先生方に、なぜだか気に入られていた。
そんな書道の先生のお一人は、私をご自宅や京都で住職をなさっていた寺院に招いてくださっていた。奥様ものんびりした優しい方で、私はこのご夫婦に招かれることを、楽しみにしていた。
ところが、その奥様が急な病で亡くなられ、私の大学の恩師であるT教授と、女流書家として著名だったM先生に連れられて、ご自宅での告別式に伺った。
広い和室に通され、憔悴しきった先生の御挨拶と、優しい奥様の遺影を前にして、他の人たちのすすり泣く声に引きずられて、私もめそめそ泣いてしまった。
呆れた顔をしていた恩師が、やがて「では、そろそろお暇しよう」と私を促した。私も、力無く立ち上がろうとした。
次の瞬間、私は万歳した姿勢で、顔面からばったりと畳に飛び込むように倒れ込んだのである。幸い怪我はなかったが、轟音を立てて倒れ込み、駆け寄った周りの人たち助け起こされた。最も驚いたのは、何が起きたのか判らなかった私であった。そう、慣れない正座をやりすぎた結果である。
駅までの帰り道、「全くお前というやつは」としょんぼり歩く私に苦笑いした恩師は、横で微笑んでいたM先生に、「ところで、先生、中村くんの書道は、どうですかな?」と尋ねた。
「なかなかなものですわよ。」
書家のM先生は、にっこり笑って答えた。
M先生とは途中で別れ、恩師との夕飯のご相伴にあずかるべく、大学の神父館に向かったのである。
二人で並んで歩きながら、告別式でやらかしたことの恥ずかしさもあり、恩師に「M先生に、なかなかですって褒められちゃいましたね」と明るく言ってみた。
「いいか、よく覚えておけ、その辺の書道の先生ではなく、あのレベルの先生に、なかなかでございます、と言われたら、箸にも棒にもかかりませんと言うことだ」と、T教授は愉快そうに言った。
それが正しかったことは、今、しっかり証明されている。