コダーイのセレナーデ
コダーイの人生について、語ることは簡単ではなさそうだ。
まず、コダーイの人生は彼一人のものではない。
コダーイについて語る時には、常に母国ハンガリーの歴史を引っ張って来てコダーイと一緒に歩かせなくてはいけないのだ。 … 目の前が真っ暗になる。
1900年、コダーイはリスト音楽院に入ると同時にブダペスト大学にも入学してそこで現代語を学んだ。
果たして、現代語とはなんであろうか…。
目の前が真っ暗になる。
ブダペスト大学にてコダーイは後に西欧マルクス主義の泰斗となるジェルジ・ルカーチ、後に知識社会学を提唱したカール・マンハイム、そして後にハンガリーの国民的作家・評論家となったベラ・バラージュと知り合いハンガリーの若き知識サークルを組織した。
何という人生だろう…。目がクラクラする。
コダーイはブダペスト大学と同時にリスト音楽院に通い始めてから数年間、「不思議なことに」出会うことのなかったもう一人の自分に初めて出会う。ベラ・バルトークである。
1905年、二人が出会ったのはエンマの家。
バルトークはその年に作曲した狂詩曲をエンマに捧げ、コダーイは5年後にエンマと結婚した。
…ん?
コダーイは1906年にヴィドールに師事するために短期間ではあるがパリに赴き、そこで出会ったドビュッシー作品の素晴らしさを帰国後にバルトークに熱く語ったということだが、バルトークは1905年にパリでコンクールを受けた際にすでにドビュッシーを聴いていたはずだという。
ともかく、コダーイとバルトークが後の世に残る名作を書き始めるのは、二人が出会った1905年以降のことである。それは二人のドビュッシー作品との出会いの時でもあり、二人がハンガリーの民謡をともに取材し始めた時でもあった。
1907年、若き二人はともにリスト音楽院の教授となった。
1908年、二人はともに弦楽四重奏曲 第1番を書き始めた。同じ年、知識サークルのバラージュがコダーイに舞台作品のアイデアを示したが、コダーイはそれにあまり興味を示さず、横にいたバルトークがバラージュと作業を始めた。それは3年後に「青髭公の城」というオペラとなって完成した。
その頃、ジェルジ・ルカーチはベルリンでジンメルやブロッホと交流を深めていた。そして、最初の重要なエッセイである「魂と形式」を1910年に出版して注目されるようになる。その後、彼はハイデルベルクにてマックス・ヴェーバーに認められ、美術と美学、そしてヘーゲル哲学の研究に没頭していた。
1914年、バルトークは再びバラージュの台本と向き合ってバレエ音楽「かかし王子」の作曲に没頭し、コダーイは運命的なヴァイオリンとチェロのための二重奏曲 作品7、そして翌年には記念碑となる無伴奏チェロソナタ 作品8を作曲した。そして二人はまたほぼ同時期に弦楽四重奏曲 第2番の作曲を始めた。
1918年 第1次大戦が終わり、ハンガリーはロシアに続いて革命の火に包まれた。ジェルジ・ルカーチがブダペストに戻ってきた。翌年、ハンガリー・ソビエト共和国の成立とともにルカーチは教育文化大臣となり、リスト音楽院の校長にはドホナーニ、そして副校長にはコダーイが就任した。
コダーイは留守勝ちなドホナーニに代わって音楽院の改革をほぼ一手に引き受けて、まずはソルフェージュ教育の体系づくりに勤しんだ。 そして、目の前が真っ暗になる。 翌1919年、ハンガリー・ソビエト共和国がルーマニアとの戦争に敗れ、早くも崩壊したのだ。
資本主義勢力の台頭によって、ドホナーニとコダーイは弾劾された。貴族出身で留守勝ちでもあったドホナーニはすぐに潔白を証明されたが、コダーイは本気で告訴されてしまった。 すでに政治に幻滅しきっていたために、共和国政府の誘いに本気で応じていなかったバルトークは自由の身であった。
共和国崩壊後、ウィーンに逃亡したジェルジ・ルカーチはオーストリア政府に逮捕された。そしてハンガリー資本主義政府に身柄を引き渡されるところを、トーマス・マン等の訴えによって助けられ、ウィーンの居住権を得る。
ジェルジ・ルカーチはマンの代表作「魔の山」に登場するナフタのモデルと考えられている。
ブダペストにて
コダーイは決然とした態度で、自らの教育的使命と身の潔白を主張した。 「ハンガリーのために、私より多くのことをやったと思う人は、私を責めるために前に出てきて貰いたい。」 ドホナーニとバルトークは懸命にコダーイの弁護をした。 弦楽三重奏のための「セレナーデ」はこのような時期に作曲された。
コダーイは「セレナーデ」において、バルトークとともに歩んだ室内楽の道を終結させた。
1918年、それぞれの方法でドビュッシーの死を見届けたコダーイとバルトークは、それぞれ別々の道を歩みだしていたのだ。
それにしても、なんという聡明な音楽であろうか。
コダーイが自分の人生の一部を託したチェロはそこにいない。 バルトークと歩んだ道を懐かしむような旋律の奔流、ショパンの英雄ポロネーズのオスティナート、ドビュッシーの葬儀の列が通過していく。そして晩年にバルトークが到達した境地にまで接近して、「セレナーデ」は愛する人の窓辺から去る。
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’22年5月18日(水) 20:00開演
「セレナーデ」
ヴァイオリン: 会田莉凡
ヴァイオリン: 尾崎平
ヴィオラ: 小峰航一