86歳が綴る戦中と戦後(7)空襲

出征しした父から一度だけ葉書が来ました。
どうやら北支(中国北部)へ行くようなことが書いてありました。
父の部隊の半分が北支、半分が南方の島へ行ったことはずっと後になってから知りました。

南方へ行った人のいったい何人が生きて帰って来たでしょうか。
(父は2年後に復員して帰って来ましたが、かなり身体が弱っていて、坊主頭の髪が伸びてきたら真っ白になっていました。)

東京は3月10日の大空襲の後4月13日にも大きな空襲があり、現在の大田区に住んでいた父の2番目の弟である叔父夫婦が焼け出されて我が家にやって来ました。

その叔父から庭に穴を掘ってそこに大事なものは入れて土をかぶせておけば焼けないという知恵を教えてもらい、母は叔父に手伝ってもらって畳1枚分くらいの大きな穴を掘りました。

叔父たちが落ち着き先を見つけて去った直後の5月24日の夜中、空襲警報のサイレンでたたき起こされました。急いで飛び起きて枕元のランドセルを背負い靴を履いて庭へ降りると周囲の空が真っ赤に染まっています。(当時は寝間着になど着替えません)
隣組の小父さんが「今日こそ危ない!刑務所の塀に逃げろ!」と怒鳴って回っています。

刑務所の厚いコンクリートの塀に張り付いていればたとえ焼夷弾が落ちて来ても直撃は避けられるだろうということで、塀のそばの空き地が避難場所と決められていました。

以前は空襲の時は演習でやったようにバケツリレーで火を消すことが一番大事。そうでなければ「非国民」呼ばわりをされたのですが、3月10日の空襲でとてもそんなことは無理と分かって以来逃げてよいことになったのです。

(上から火の付いた焼夷弾が雨あられと降って来るのをバケツリレーで消火?!
子どもにまで竹槍で藁人形を刺し殺す練習までさせた日本政府の役人や軍人たちはいったい何を考えていたのでしょう?
今思い出してもそのバカさ加減に腹が立ちます。
そのバカ共にいったいどれだけの国民が殺されたかわかりません。)

私は母と家の中のものを手あたり次第ぽんぽんと庭の穴に投げ入れました。
土をかけている母に先に逃げるよう促されて、私は水に浸けた掛布団を頭から被って向かいの刑務所の社宅の庭へ走り込みました。

すると目の前に火の付いた焼夷弾が落下!
右横にもすれすれに落ちて来ます!
とっさに屋根のある所へと、開け放しの社宅の軒先に飛び込もうとした瞬間、目の前に落下!周りがオレンジ色一色になりました。

焼夷弾は直径7~8センチ長さ50センチほどの6角形の鉛の筒で、それが火をつけたまま雨のように降って来るのですから今思えばよく直撃弾を受けずに済んだものです。
大体1坪(畳2枚分)に1本の割合で落ちて来たと後に知りました。

気が付くと私は社宅の前のバス通りの端にしゃがみこんで、目の前に点々と落ちて燃えている炎をじっと見つめながら「私はこの光景を一生忘れないだろう」と思いながら、ただぼーっとしていました。
目の前を大勢の人が駆けて行きます。大八車やリヤカーが走って行きます。

その時「ナオコー!ナオコー!」と叫ぶ母の金切り声を耳にしてハッと我に返り、母の元へ駆け寄りました。
しばらく走って広場に着き、コンクリートの塀に張り付いてバス通りの向こう側を眺めると一面火の海。
同じような2階建の家が順番に1軒ずつ燃えて行くのを一晩中見つめていました。


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