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中東の少数派宗教集団に、72回の虐殺を行ったのは誰なのか

 この回では、イラクの少数派宗教集団であるヤジーディが、これまで他の民族や他の宗教を信仰する人々から受けてきた迫害の歴史をたどってみたい。これは、私のヤジーディの友人、マルワン・シンジャーリ氏が持っていた迫害の歴史をまとめた文書(英語)に基づいたものだ。文書によると、ヤジーディが受けた迫害は7世紀以来、計72回にのぼる。

そもそも「ヤジーディって何?」と思った方は、上記のnoteマガジン「中東の少数派ヤジーディ」内の記事を参照して欲しい。今後、さまざまな角度からのヤジーディ情報を追加していくつもりだ。

上の写真の左が、マルワン氏。イラク北西部シンジャールで生まれ育ったヤジーディ。現在、スウェーデン南部トロサで暮らし、市当局でイラク、シリアなどからの難民の定住支援事業を手伝っている。写真右がマルワンの兄、マーヘル氏。もちろん彼もヤジーディで、同じトロサ在住。バスの運転手として働いている。写真は2016年2月、バス運転の合間に撮影した。

ヤジーディは、自分たちの歴史が数千年前までさかのぼることができると主張する。迫害の歴史は、西暦630年、イスラム教がアラビア半島から周辺地域に勢力を拡大していた時期に始まると、その文書は伝える。

630年 イスラム教徒が、一連のヤジーディの殺害・拉致を開始 

この西暦630年という年は、イスラム教の預言者ムハンマドが、メッカを再び奪取し聖地と定めた年だ。メッカからは数千キロは離れている、現在のクルディスタンで暮らしていたであろうヤジーディの祖先たちとイスラム教徒たちの戦いが始まったのは、実際は、その少し後だったかも知れないが、いずれにしても7世紀の前半には、ヤジーディたちを武力でイスラム教に改宗させようとする動きが始まったようだ。

現在ヤジーディと呼ばれる人々の祖先が当時、どんな信仰を保持していたかは不明だが、唯一神「アッラー」を崇拝し、偶像崇拝を否定するイスラム教の観点からすれば、ヤジーディは他の多神崇拝者とともに「邪教」扱いされていたとしても不思議ではない。

981年 イスラム教徒のクルド人が、ハッカリ地方(現在のトルコ東南部)のヤジーディを包囲。クルド人は「降伏すれば命は助ける」との約束を反故にして、ほとんどのヤジーディを殺害。生き残ったヤジーディはイスラム教に強制改宗させられる。

ヤジーディはおもにクルド語の一方言(クルマンジー語)を話すため、クルド人という認識が広まっているが、イスラム化されたクルド人からは、たびたび迫害を受ける。上記はそのほんの一例である。

1218年 フラグ・ハーン率いるモンゴル軍がヤジーディ集落を襲い、住民の多くを殺害されるが、ヤジーディ軍は反撃。モンゴル軍は撤退を余儀なくされる。

東方から西アジアに侵攻してきたモンゴルと戦ったのは、イスラム教徒だけではない。ヤジーディたちも、自分たちの独立を守るため、必死で戦った、とみられる。

1254年 モスル(現在のイラク北西部の都市)の支配者、ハドルッディーン・ルルとの間で戦闘が始まり、ヤジーディの指導者シェイフ・ハサンは捕らえられ処刑される。ヤジーディはシンジャール山とその周辺に逃れる。
1414年 ペルシャ軍がハッカリ地方に侵攻、多くが殺害される。ヤジーディたちが聖人とあがめるシェイフ・アディの遺体が奪われ、人質にされたヤジーディたちの前で焼かれる。

ヤジーディの信仰はゾロアスター教をはじめとした古代ペルシャの信仰とも関連が深いとされる。だが、ペルシャはその後、イスラム化する。15世紀には、イスラム教シーア派国家であるサファビー朝ペルシャと、スンニ派のオスマン帝国の対立の最前線だった、現在のトルコ東南部のハッカリ地方に暮らしていたヤジーディが巻き添えとなる。

ヤジーディが暮らすトルコ東南部からイラク北部、シリア北部にかけての地域はその後、オスマン帝国の支配が確立され、以後、オスマン帝国が崩壊する20世紀前半まで、苛烈な迫害を受けることになる。

1640-41年 オスマン帝国の知事、アハマド・パシャの軍隊に攻撃され、数百人のヤジーディが殺される。
1733年 オスマン帝国のバグダッド州知事、ハサン・パシャが、ザブ川周辺のヤジーディ集落を攻撃、ヤジーディを大量虐殺。集落は完全に破壊され、3000人のヤジーディが強制改宗させられる。
1752年 オスマン帝国の提督スレイマン・パシャがシンジャール地方のヤジーディ集落を2年にわたり攻撃。3000人のヤジーディが殺害され、500人が拉致される。
1767年 オスマン帝国のモスル州知事、アミーン・パシャとその子息が、シンジャール地方に住むヤジーディを攻撃。1000頭の羊を要求され、800頭しか持っていかなかったところ、多くのヤジーディが殺害された。
1832年 クルド人イスラム教徒でボタン地方(現在のトルコ東南部ジズレ周辺)の支配者、バーデル・ハーン・ベグが、ヤジーディの指導者、アリ・ベグを拷問。数千人のヤジーディを虐殺。ヤジーディたちはチグリス川を渡って逃げようとするが多くが溺死したり捕らえられた。捕らえられた者たちは「改宗か死か」を迫られた。
1838年 オスマン帝国のディヤルバクル(現在のトルコ南東部の都市)知事、タヤール・パシャがシンジャールのヤジーディ多数を殺害。タヤール・パシャはヤジーディから税を取り立てるために派遣した特使がヤジーディに殺害されると、ヤジーディの領域に侵攻。ヤジーディたちは洞窟に立てこもるなどして抗戦。
1892年 オスマン帝国の指導者、オマル・ワハビー・パシャが、シンジャール地方やシェイハーン地方のヤジーディに対し、「イスラム教に改宗するか、より多くの税の支払いのどちらかを選ぶよう要求。クルド人イスラム教徒と組んでヤジーディを攻撃。約1万5000人が殺害されるか、強制的に改宗させられる。ヤジーディの聖地であるラリッシュの神殿が7年にわたり占領され、イスラム教徒の学校として使われる。

20世紀以降の迫害については、別の回で紹介したいと思うが、この年表をみるだけでも、ヤジーディたちが、アラブ人、ペルシャ人、モンゴル、クルド人といった、周辺のあらゆる勢力から迫害を受け続けてきたことがよくわかる。

こうした状況に身を置き続けながらも、ヤジーディたちが今、こうして現代でコミュニティーを維持し続けているのは驚くべきことといえる。彼らのアイデンティの根幹であるヤジード教という宗教への思いの強さを改めて感じるのだ。

 ヤジーディであるがゆえにイラクでISに拉致されて性奴隷となった女性、ナディア・ムラードさんを主人公としたドキュメンタリー映画「ナディアの誓い」が2月1日から日本で上映される。

 ここで紹介した、ヤジーディの人々が背負ってきた辛い歴史をふまえて作品を見ると、彼女が抱く、同胞を救いたいとの強い使命感もよく理解できるのではないかと思う。

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