映画『かもめ食堂』
まだ当店が影も形もない2006年、だけど「店をやろう」と決めていたこの年、映画『かもめ食堂』を観ました。
小林聡美演じる主人公が、フィンランドでひとり開いた食堂を巡る物語です。
映画の序盤、なかなかお客様が訪れず、それでも主人公が毎日グラスを磨き、テーブルを拭いて空っぽの店内でお客様を待つ様子に、わたしは覚悟しました。
「きっとこれから始めるわたしの店も、そうなるだろうな。だけど、信じて辛抱しよう」と。
でも、見ていてだんだん落ち着かない気持ちになります。
お客様が来ないのに、市場で買い出しをして食事を作り、毎晩日課のトレーニングをして、プールで泳ぐ主人公。
異国の地で自分の選んだ道を信じて、淡々と、そしてキチンと日々を送っていくのです。
「いやー、映画だからそんな悠長に描けるけど、実際は居ても立っても居られないんじゃないかな。将来のこととか、心配だよね? だいたい、生活費が続かないでしょう?」と、当時のわたしは現実的な思いを抱いたものです。
けれどもどこかで、そんな生き方に憧れていたのかもしれません。
そして、現在。
映画の内容をほぼ忘れた状態で、久しぶりに『かもめ食堂』を観て驚きました。
この映画には、店を始めてからのわたしの日常がぎっしりと詰まっていたのです。
オープンしてもなかなかお客様が来ないのは、やっぱり同じでした。
何とかお客様が来るようにと周囲にアドバイスをされても、主人公が自分の信念を曲げないのも同じ。
遠巻きに様子見している人々に会釈し続ける主人公を見て、「わたしもあの頃ご近所さんに気を遣って過剰にペコペコしてたなぁ……」と思い出します。
そしてその遠巻き様子見グループが、結局お客様として訪れてくれるようになるのも、まったく同じです。
ふとしたことから、手を貸してくれる人々が現れるのも同じ。
突然夫に出て行かれ、自暴自棄になる中年女性も、見ていて身につまされました。
ついに満席になった瞬間の店内を感慨深げに眺める主人公の姿は、まるで自分を見るかのよう。
初めて観た時には悠長に見えた主人公の日常は、今のわたしには、緊張感のある充実の連続で輝いて見えました。
お客様が来ないことを心配されて、
とサッパリと話す主人公を、以前は「なんて呑気なんだ!」と呆れたのに、今はその主人公の思いが胸が痛くなるほどよくわかります。
後先なんか考えず、というか考えられず、目の前のことに一途に向かうことしかできない時期が、きっと誰にでもあるはず。
傍から見れば、無謀で、悠長で、先のことを考えないお気楽な生き方をしているように思えても、本人は選択の余地のないギリギリのところで、自分にしか見えないものを信じて生きているのです。
それは、後に続く主人公の言葉でわかります。
この問いから、2人の女性は「美味しい物を食べたい」という共通の答えで盛り上がります。
夢見るように語る主人公。
彼女は、いつ世界が終わってもいい生き方を、日々続けているだけなのでしょう。
登場人物のみんなが、それぞれ抱えているものがあり、傷つき迷い、人生にちょっと疲れています。
お店は、そんな人たちの拠り所であり、通過点です。
そして、印象的な主人公のセリフが出てきます。
それにしても、食事のシーンが本当に素敵。
おにぎり、焼き鮭、生姜焼き、唐揚げ、トンカツ、シナモンロール。
日常的な食べものが香ばしい音とともに映し出されて、そして美味しそうに食べられていきます。
食べるものが端正に描かれる映画はたまらなく魅力的で、そんなシーンを観るたびに「ああ、ちゃんと食べよう。そのために生きているようなものだ」と、おざなりな自分の食生活を反省。
そうしてしばらくの間は映画を思い描きながら作って食べて、身も心も整っていきます。
とにかく、シンプルに、ちゃんと作って美味しく食べたくなる映画。
かもめ食堂の明るい店内と違ってわたしの店は薄暗いし、プールで泳ぐ小林聡美が頭を出したままのチンタラ平泳ぎに対して、わたしはガンガンノンストップのクロールだし、色々違いはあるものの、それでも勝手に共通点があると思ってしまう映画でもあります。
やっぱりわたしも、好きな人たちと楽しく美味しい食事をして、そして〆にはわたしが淹れた珈琲を。
そんなことを夢見てしまう春のはじめです。