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立体的友情関係の見つけ方 - 映画で見る友たちの新たな魅力について

見つけてしまったぞい。面白い友達関係。

3月末から少しずつ足音が聞こえてきた、自粛生活。

その頃、僕は「めいいっぱい楽しもう」と、「何かを変えなきゃいけない」という強迫観念なようなものに囚われていた。


今だからこそ、思い出してみて、そうだったなぁ。と思った。

今までしてきたものを無理やり持続させてみようとしたり、価値観を変えてみようと躍起になって情報集めてみたり、まるで最後の晩餐かのようにウロウロとしてみたり。

結果、たくさん本を買って、なんかCDやDVDも買って、積読や積見のようなものが溢れていた。

緊急自治宣言が出た後に、実家から東京に戻らず、ひたすら実家のリビングで仕事、キックボクシング、ラジオに囲まれながら、これまで当たり前だった外圧(いい意味ね)に晒されていないと自分の好奇心が失われていくかのような怖さの中で、無理やり外側を探す時間を持とうとして疲れて、変化しようとして疲れて、何だかなぁという気分で迎えたGW。

冷静になって考えた。


「遊び方、少し変えてみるか」と。


元々、自分は価値感が凝り固まってしまった時に、無理やり海外に出かけたり、服を変えてみたり、人にたくさん会ってみたり、いわゆる「外側からの刺激」で乗り切ってきた感が強い。

そういう場合、他力本願というよりも、自力で何かをしたことで保てる自信で「まだいける」「大丈夫」って思い込んで明日へのエネルギーにしてきた。

と、思う。

もちろん、そういう方が周りにいたら、それは素晴らしいよ!と言って当たり前のように素敵だなぁと思っただろう。

でも、今回ばかりは勝手が少し違う。自分に対して。なんか、もう少し見えている風景を工夫してみてもいいんじゃね?と考えた。

考えたというのは自分頑張りましたっぽいのでおこがましいのだけど、結論としては、「変えてもらった」。

今まで、きっかけを作ることが素晴らしいことだと思って、自分で何か探して、誰かに話して、時間を共有していた。

それが正しくて、勝手な思い込みで自分がやるべきことだと思い続けていたから。

でも、今回は、相手に乗っかってみた。というか、頼ってみた。

何をしたのか。純粋に、人がオススメするものに乗っかってみて、その中でみんなで話し合うだけ。

自分から選ぶのではなく、誰かが選んだことを普通に楽しんで、時間を共有するだけ。


誰かと一緒に映画やライブに出かけて、感想を語り合って、ご飯を食べることが大好きだったので、それができなくて悩んでいるのであれば、せめて時間だけでも共有しようと思って、

同じ映画を見て、感想をいう時に集合して、会議ツールでただ喋る。


をしてみただけ。


そこで選ばれたタイトルは、


「はじまりへの旅」

という映画。

アメリカ北西部の森林で暮らす家族の物語。森の中で、「文明社会に背を向けること」で、「自分が選んだ価値観」を徹底的に研ぎ澄ましていく父親の教育のもと、育てられていく子供達。
そこで、彼らの「正しさ」はどんどん解像度が上がっていく。しかし、ある出来事で普通の街中に出ていくと、社会の「普通」や「正しさ」とのギャップに遭遇し、子供達は戸惑っていく。

結果、そのすり合わせでの価値観の相違がどちらが正しいという答えがあるわけでもなく、浮き彫りになり続ける映画なのだ。

この作品を見て、オンラインで集合し、感想を語り合いながら、近況報告をしあった。

出てきた話題は、自分の意見とは近いものもあるし、「なんだよこんな風にあんた捉えられるのか!」という価値観だったりして、
それぞれ知った気になっていた考え方からさらに相手をすることができた。

1つの作品と、時間を共有することで、きっとこの映画の中の家族のように凝り固まっていた価値観を崩してくれる存在は、案外身近な友達たちで、これまで対面的に同じ方向を向いてリアルに歩いていただけでは、出てこない、顔の見えない時間を共有するからこそ、考えが研ぎ澄まされていって、もっと相手を知ることができるきっかけになった。


立体的な友情関係ができた!というわけですよ。


先日、あるnoteを読んで、友人がこの事態で振る舞いが変わっていくことへのキツさを書かれている方がいた。

そこで、過去の友人と自分自身が滅多にないのだけど、旅先で喧嘩別れをして、その後2度と合わないというまぁ、これから起きないだろうなという出来事を思い出した。

その時の、僕たちは、きっと、「君はこういう人」と思うくらい頻繁に会い、その相手の存在価値を当たり前として共有し、「変わらないこと」というよりも「変えないこと」を優先した付き合いだったんだと思う。

でも、今夜僕たちが過ごした時間は、あくまでもフラットに、「こういうところもあるんだ!」と気づかされてくれる時間だった。


話はとっ散らかるけれど、まさに共有した映画と同じで、中身や、近いところから少しだけ耳を傾けたり、普段とは違う制限の中で、接してみることで、いくらでも新しい価値観は、慣れ親しんで、安心して話すことのできる大事な人たちの中にいくらでもあるんだということに気づかされた。

多分ね、それは親でも、親戚でも、兄弟でも、友達でも、同僚でもあるんだよ。

無理やり探しに行かなくても、目をつぶって視界を少し暗くすることで、広がる視野もあるんだよね。と。

映画を見て、ただ感想を語り合って近況報告に変えてみたり、1つのnoteを読んで、それをお手紙だと考えて返事を勝手に書いてみたりすることでわかる
身近な人たちの、新しい価値観や知らなかったこと。

思い出の金脈って、無理しなくても近くにあるもんだなぁと思った。


「こんな時だからこそ」というのには疲れる時もあるけれど、「こんな時だったから」はめちゃくちゃアリで、面白かった。


これからもよろしくマイフレンド。ありがとうベストフレンド。

昔、スロウライフブームの時に


「無い物ねだりより、よかった探ししようぜ」とあったけれど、まさにそれ。

インターネット、案外いいじゃんと思った。

そうこうして居たら、いいことが並べられているTwitterに疲弊することもなく、普通に「みんな色々考えてんな」とにこやかに見れるようになってしまった。

そしてもう1つ。エンタメ業界について。

みんな死ぬ気で試行錯誤している。正直、IOT的な物を導入支援している身としては、現場の本気でこれからを考えるお客様と向き合うことで、「何をすればいいのか」に悩み続けてる。

この記事です。

いとうせいこうさんが中心となり、様々なアーティスト、芸人さんが配信をし続けていくオンラインフェスについて。

この中でのスタンダップコメディアンの素晴らしい才能の持ち主の方々とご縁があり、昨年から公演などをご一緒させていただいています。

自分自身も皆さんも、「どうしていくべきか」を、様々な日々更新されるツールの中で、どうしたらいいのかを格闘されています。

闘っている。本気で。

エンタメの灯火のを守るためにも、いつか収束した時に、コンテンツメーカーがきちんと残っている世の中であるためにも、本気で闘っている。

だから、金銭的な支持には限界もあるかもしれないけれど、どうか、「楽しんでいる」ことだけは忘れないでください。

形は少なからず変わるものもあるし、その過渡期だし、「じゃあ○○しましょう」と簡単に変わるものでもない。

紙媒体から、デジタルに移行し、SNSができて、スマホが出て、IOTやAIを経験してきた自分としては、そんな手段の変革どころではない状況なのを身を以て体感しています。

歴史的な転換期(なのかな)の中で、たかが1月や2月で移行できる物でもないでしょう。

だから、今はまずはとにかく「自分の愛するアーティストや演者、作品」を好きでいることだけを続けて欲しいのです。

僕の手掛ける公園にお金を払って欲しいというわけではなく、とにかくジャンルを愛し続けて欲しい。

それだけです。無理なら無理しないで。

=====余談です=====

スーパーで給食時代のマイスター、「ソフト麺」を発見しました。

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という話で、お後がよろしいようで。

明日の夕飯、何食べようかな。みんなは何食べる?


それとさ、一緒に遊んできれる人、よかったらやろうよ!




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増田ダイスケ
新しいzine作るか、旅行行きます。