
研究:国際関係と仏教について(1)
このところ立て続けに論文を提出してる(今年の中頃から後半にかけて、連発で刊行されると思います)んですが、その中心は仏教と国際関係について。おそらく世界中を見渡しても、このテーマでやってるのは数人だと思います。元々は仏教哲学とも呼ばれる京都学派(西田幾多郎などの哲学:仏教のエッセンスは確かに入ってるとは思うのですが仏教哲学とまで言えるかどうかは疑問)の戦争協力に興味があったんですが、そのうち仏教自体に興味が出てきて、その戦争協力とともにその教えについても研究を始めました。
その当時、世界的に関係性論(Relationality)という概念が出てきてて、これれまでの独立した主体(私)という概念から関係的な主体(私)という方向で研究が動き出しました。2010〜15年ぐらいでしょうか。トップランナーは儒教的な関係性で、そこではヒエラルキー的な関係性の問題が取り上げられています。僕個人としては儒教が嫌いなので、嫌だなと思ってて、あんまり関心なかったんですね。そしたらそのうちに南アメリカの先住民のコスモロジーだの、インドのヒンドゥー的なコスモロジーだと、南アフリカのウブントゥ(ubuntu)だの、さまざまな関係性論が出てきて、おー、面白いやんと思ったわけです。
で、たまたま自分は仏教に興味あるし、僕もやってみようか、ということで縁起思想を取り上げたんですね。そしたら、めっちゃ面白くて、こんな世界観ってあるんや、と感嘆したわけです。僕の理解が正しいかどうかはわからないんですが、要は関係が先にあって、その関係によって人が作られるっていう考え方で、その関係は長続きしないものと措定されているんです。けれども、僕らは一定の関係をなんとか維持したいと思うから、苦しみ出してしまうんですね。で、これが煩悩なるものなんです。この辺りの話は(娘に教えてもらったんですが)最近しんめいPさんの『自分とか、ないから:教養としての東洋哲学』(サンクチュアリ出版: 2024)っていうめちゃくちゃ面白い本が出て、おー!ってなったんですが、興味のある方は是非そちらをご参照ください。
で、国際関係の話に戻りましょう。お気づきの方も多いとは思いますが、国際関係って「私」って概念がめちゃくちゃ強いんですよね。だいたい安全保障っていう言い方がその典型で、要は「私(たち)」を守るためにどうするかっていう話なんです。そこでは「私(たち)」が明確に他の人(たち)から切り離されていて、その他の人(たち)が私(たち)の利益を侵害してきたら守るのは当然ですよね、的な言い方がなされます。それはそれで間違いではないんですが、だからと言ってすぐに兵器を使って戦おう!というのはあまりに直情的じゃないかと。
で、これを関係性論的に言うとどうなるのか。儒教的な関係性論で言えば、これって道徳心のなさに由来する話になると思うんです。つまり、私(たち)と他の人(たち)との関係は一定の秩序を持っているわけで、一方が他方に依存している場合もあるだろうし、同等の立場の場合もあるだろうし。ただ、いずれにしろそこで紛争が起きると言うことは、なんらかの形でこの関係性が上手くいかなくなったことを意味するわけです。儒教にとってこの関係性の崩壊は道徳の機能不全を意味します。なぜなら人と人との関係は道徳によって保たれているという前提があるからです。じゃ、仏教はどうなんだ?となるところですが、今日は疲れてきたのでまた次回と言うことで。(終)
ここから先は
¥ 100
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?