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「何のために生まれてきたのか」という究極の問いーアリストテレス・ニコマコス倫理学ー

「チ。-地球の運動について-」の最新話が自分に刺さりまくってしまったのでここに書き記したいと思います。

■私が小学生から考え続けてきた問い

「何のために生まれてきたのか」私は小学生の時からずっと思い悩んでいました。
きっと周りと違うことが要因だったんだと思います。
LGBTQというアイデンティティ、大体骨頭滑り症という足の病気を患い小学生の頃に入院生活を送っていたこと。
人よりも違うということやハンディキャップを背負った時間があったからこそ、落ち目に感じて何のためにこうやって生まれてきたんだろう・何か意味があるのではないかと考えてきました。
そして死ぬことが極端に怖い私は死んだら無になると思っているので、生きることに何の意味があるのだろうと。

■アリストテレス「二コマコス倫理学」から見る最高善

私は哲学的にいうとアリストテレスが提唱する最高善を成したいタイプなんだと思います。

何かしらの卓越生に沿って幸福のために活動をし続ける。
この理論の私なりの解釈は、卓越しながら社会へインパクトを創造することであると思う。
「目的」のために活動することが幸せであるという捉え方です。

一方で、サルトルが提唱する「実存は本質に先立つ」ということに納得感を持つタイプもいると思います。私は理解はできるものの反論したくなるという感じです、笑

特に宗教がなく工業化社会に適応するための教育を受けてきた私たち日本人は、世界をより善いものにしていくといった感覚を持つことは難しいのではないでしょうか。

■大きな失敗やコンプレックス・こだわりが生まれてきた意味を創造してくれるのではないだろうか

生まれてきた意味なんてない。生きる意味は子孫を残す、家族を作ることであると私は田舎で教えられてきました。
祖父や周りの友人にもそういう人が多くいます。
私はLGBTQなので子供を産めないし、であれば自分は生きる価値なんて無いのではないかと思い悩んで生きてきました。
ただ、私は勉強することによって知性でそれらの捉え方を変えること、社会の風潮が変えることができるのではないかという勇気をもらいました。
今はまだ目標の過程ですが、きっと今もがいている何かが死の恐怖を超越した感動を創造してくれ、生まれてきた意味になるのではないかと信じて走っています。

■死を超越する一瞬の感動や快楽のためにある数奇な人生をいきたい

今回、「チ。」の中でヨレンタさんの言葉が私の心を震わせてくれました。

『人生最悪の瞬間に立ち会った時こそ正しいと思った選択をしなければならない。その一瞬の選択のために私の数奇な人生は存在する。
積み上げた歴史が私の動揺を沈めて、臆病を打破して、思考を駆動させていざって時に引かせない。全歴史が私の背中を押す。』

ヨレンタさんの全歴史が地動説に生きた人生のことを指すのとは思うのですが、その地動説に感動し愛し生きてきた人生が、殺されるであろう場面に直面することになっても信念をぶらさず生きる。
きっとアリストテレスが死刑台に送られた時も、同じような志で信念を貫きその生涯を終えたのだろう。

死ぬ時に私が生まれてきた意味を実感したい。そのために今を必死で生きる。
もちろんそんなもの虚しいし馬鹿らしいという人もいるだろう。しかし、コスパ良く生きるなんて私には到底無理で、私は自分の人生を愛したいのだからその一瞬を見つけるまで踠き続けたいと思う。


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