品性と自己肯定感は「求めない」というか、諦めたい。

◼️「品性をお持ちですか?」

この質問にYesと答えた、貴方。

残念ながら、
おそらく貴方は、
「品性」をお持ちではありません。

私は、学問の権威でもなければ、
専門知識を持っているわけでもない。
頭の回転も悪いし、勘も鈍い。

そんな普通以下の私から、
唐突に「品性がない」認定され、
憤慨されるのも無理はない。

他人の品に言及するお前こそ、
「品性がない」!

そう思われた方。
大正解!
私に「品性」は、ない。

だが、

私は何となくだが
確信に近いものを感じるのだ。

「私には品性がある」と胸を張る方、
「品性がない」と言われ憤慨する方、
つまり、「品性」を鼻にかける方は、

おそらく確実に
「品性がない」だろう、と。


◼️「品性」とは無意識

私の考える
「品性がある人」の定義とは、
超単純である。

何かの角に、足の小指をぶつけた時、
「痛い!」と呟く(思う)人、だ。

決して、
「イテっ!」「イッッテェ~!」
とは口にしないし、思いもしない。

同様に、「マジか~」とか、
「ヤッベェ~」という言葉(音)の類いを、
思考の中でさえ使わない。

つまり、
私が考える「品性がある人」とは、
無意識が上品な人である。

よって、
品性のある方とは、

「私には品性がある」
とは絶対に主張しないし、

「品性がない」と言われれば、
己の振る舞いに何か落ち度があったのでは?
とまず自問するため、憤慨はしない。

と思うのだ。

品性のある方と
深く関わった経験がないので、
あくまで私個人のイメージだが。


◼️無意識は、矯正不可

ずいぶん前に、
女性の品格 (著:坂東 眞理子 /PHP新書)
という本が流行った。

私はその本を読んでもいないし、
これから読む予定もない。

おそらく、
その本を読んで身に付くものとは、
「品性についての知識」であり、
決して「品性そのもの」ではないだろう、
と当事の私は思ったからだ。

前述した通り、
私の考える「品性」とは、
上品な無意識を持つことである。

「品性」を得ようと、
無意識を上品に、と意識した時点で、
その意識は既に無意識でない。

無意識の上品さ(品性)と、
意識的に身に付けた上品さは、
一見同じように見えても、
その本質的な差違は埋まらない。

後者は、
意識的に「痛い!」と言えたとしても、
何かの角に、足の小指をぶつけた時、
(=無意識に、反射的に、素に戻った瞬間)
「イテっ!」と呟いてしまうからだ。

「品性」(=無意識の上品さ)を
意識的に手に入れることは不可能だ。

今も私は、そう考えている。


◼️本物の「品性」を持つ者

ところで、

本当に「品性」のある人は、
「品性」を話題にするだろうか。

本当に優しい人が「優しさとは…」と、
決して自ら語り出さないように。

人間、当たり前(無意識)のものには、
関心を持つどころか、
それ自体に名前さえ付けない。

我々日本人が、
日本の治安や豊かさについて、
どうしても無頓着になるように。

本物の「品性」とは、
それを意識し、語れば語るほど、
それを追い求め、手を伸ばすほど、
そのものの本質から
遠退いてしまう類いの感性
なのかもしれない。

もしそうだとしたら、
何とも皮肉な話である。


◼️本物の「自己肯定感」を持つ者

【自己肯定感を高めるためには】と題し、
自己肯定感が薄弱な人に要求されるのは、

規則正しい生活リズムや、
栄養バランスの整った食事、
適度な運動や、
健全な交友関係など

ごく〈普通〉のことだ。

だが、その一方で、
不規則な生活をしていても、不摂生でも、
多方面で排他的傾向があったとしても、
自己肯定感がチート級の人がいる。

おそらく、その人が持つその感性こそが、
正真正銘、本物の「自己肯定感」である。

ごく〈普通〉へと改善された生活環境で
高められた自己肯定感など、
その程度はたかが知れている。

品性(無意識の上品さ)を装った、
うわべだけの上品さのように。


「品性」と同様の皮肉は、
自己肯定感にも当てはまる。

本質を追い求める過程で、
本質獲得条件の不条理さ
身につまされるのだ。


◼️自己肯定感、いつ付けるの?

「今でしょ?」
つい勢いでそう答えたくなるが、
残念ながら、今ではない。

今、どんなに自己肯定感を求めても、
今、どんなにその構造を理解しても、
今、そのどんな理論的実践を試みても、

「絶対的な」自己肯定感は得られない。

得られるのは、
(無意識を装った)意識的な上品さと同様、
無意識の隅を少しでもつつかれれば、
あっという間に致命的な崩壊が始まる
意識的で脆弱な自己肯定感である。


おそらく、
品性も自己肯定感も、
自助努力で獲得するものではないのだ。

それらは育った環境に依存し、
他人との関係性から育まれる。

「本物の」品性や
「絶対的な」自己肯定感は、
(持って生まれるものではないが)
生後~自意識(自我)が確立する
ごく限られた時期
にしか
身に付ける(育む)チャンスはない。

その特定の時期に獲得できなければ、
その後、どんな努力を引き換えにしても、
それらを得ることは不可能なのだ。

「純正」
品性や自己肯定感を求めることは、
「経験できなかった過去」を
「思い出」として追い求めるようなもの
ではないだろうか。


◼️似非モノを身にまとう

マナーを学び、理解し、訓練し、
お行儀よく振る舞うスキルを身に付け、
無意識の露呈抑止に細心の注意を払い、
「品性」を装備する人がいるように、

事あるごとに揺らぐ「自己肯定感」を、
代替物で定期的に補充し、補強しながら、
自己肯定感が薄弱な私は
日々を生きている。

ガソリンを給油するたび
手持ちが減るように、
揺らぐ自己肯定感を満たすたびに、
何かを差し出している。

似非モノの維持には、
本物を維持する以上にコストがかかるのだ。
(美容整形をイメージすれば容易だろう)

永遠に続く、
そのコストの支払いに、
そのメンテにかかる手間に、
心底うんざりしてもいる。

◼️「解放」を求める

品のない人生や、
自己肯定感の低い人生に、
眉をひそめる方の思考は理解できる。

だが、
「品性」から解放された環境は、
本能的な快適さを伴う。

誰の目も気にせず、
心地良さのみを最大限追求した服で、
好きな体勢で、好きな物を、
好きなように食べながら、
本を読んだり、動画を観たりと、
心の赴くままに過ごす空間は、
人間としての幸福以上のものをもたらす。

そこに「品性」や「自己肯定感」といった
高尚なものを求めることは野暮というか、
大きな間違いだ、という気さえする。

そう感じるのは、私だけではないハズだ


もしかしたら、
「自己肯定感」から解放された環境も、
同様の快適さを伴うのもしれない。

それとも、
「自己肯定感」からの解放とは、
「絶対的な自己肯定感」の獲得と同時に
「自己肯定感自体を無効化」すること
なのだろうか。




だとしたら、私は、

品性と自己肯定感の
〈無効化〉方面から、

品性と自己肯定感からの
〈解放〉を目指したい。


よし、

品性と自己肯定感の獲得経由での、
それらからの解放は諦めた(い)



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