どうしよう。「やる気になる」気に、なれる気がしない。
「やる気」に、なりたくない。
「やる気」になれない。
生きていくための、
必要最低限のことをこなす以外、
ほとんど、本当に何もやりたくない。
表題に『どうしよう』と入れてはみたが、
「やる気」が発生しない状況に、
何かしら不便を感じてはいない。
むしろ、
日常生活を毎日こなす中で、
私の「やる気」は十分消費しており、
更なる「やる気」を出せ!
という世間に戸惑ってさえいる。
「やる気」が出ない(出せない)
=病気or社会的欠落?
「やる気」があったのは小学生までだ。
なぜ「やる気」があったのか不明だ。
なぜ今「やる気」がないのかも不明だ。
「やる気」は一般的に、
どれくらいあるのが正常なのだろうか。
というか、「やる気」がないのは、
そんなに異常なことなのだろうか。
「やる気が出ない」で検索すると、
うつ病や、無気力症候群など、
明らかに病状を心配される内容が目に付く。
……え?私、病気??
もしくは、
「やる気が出ない」原因と、
「やる気を出す」方法が、
主に転職サイトで言及・紹介されている。
……やる気=労働意欲に限定?
「やる気」がない=生物的過失
とされているようで、本格的に気が滅入る。
「やる気」がない=人間失格?
確かに、恥の多い人生を送ってはいるが、
それを誰かに笑われることはあっても、
咎められる謂れは、ない。
意識高い系、意欲高い系の方々より、
「非生産的」「無気力とはけしからん!」
と罵らんばかりに言われる筋合いもない。
己が理想(価値観)を他人に求め、
それが叶わなかったからといって、
他人に憤慨・失望する行為は、
不当であると私は考えるからだ。
もし貴方が、
収入や外見、学歴などで、
他人を評価することに
少しでも抵抗を感じるのであれば、
「やる気」の有無という基準で
他人を評価することにも
意識的な抵抗を持つべきではないか。
「やる気」を求める方へ
子供や部下を育成する立場の方で、
「やる気」がない者を見下し、
見限ることを正当化する人を見ると、
対処を誤っているのでは?と感じる。
本人の意欲以外の興味や「やる気」とは、
何とかして引き出すものである。
そして、育成する立場の人間の役割とは、
興味や「やる気」が発生する環境を創出、
もしくは、興味や「やる気」が不在でも、
成果に繋がる「何かしらの能力」を
本人に与えることである。
「やる気」を出すことは、
成長という目的達成のための
手段の一つでしかない。
本来の目的(本人の成長)を見据え、
本気の「やる気」を出さねばならないのは、
育成する立場の人間=
「やる気」を求める側、だ。
「やる気」の価値評価
それでも、
「やる気」の絶対的価値を主張し、
「やる気」を求めずにはいられない
「やる気」依存症の方へ。
社会は「やる気」ではなく、
「生産性」の有無で、人を評価している。
(反論はありますか?)
成果に結び付かない「やる気」は、
評価対象にはならない。
(成果の前の「人間性」も同様です)
そして、
「やる気」は確実な成果を
保証するものでは、ない。
(異論がある方は現実を直視するように)
そうなれば、「やる気」は、
ただの個人的な嗜好である。
高収入な人を好む方、
外見が魅力的な人を好む方、
何より学歴を重視する方、
意欲的な人を好む方、
ある特定の嗜好を持つことは、
個人の自由であり、何の問題も伴わないが、
それを社会的過剰に他人へ適用し、
周囲に不快感や不利益を与えるのであれば、
それは立派な人権侵害だ。
「やる気」になれない
どう頑張っても、
「やる気」を出す気になれない。
食べることに執着がなく、
空腹でさえもないのに
食事を強制される。
そんな気分になるのだ。
何かしらの病気なのだろうか。
そして、やはり治療が必要だろうか。
一回死ねば、
速攻(確実に)
治りそうな気がする、
のだが…。