「出来ない」というか、「面倒臭い」というか、ただ料理したくない!
◼️料理が嫌いである。
「苦手」という次元の前に、
「嫌い」である。
世の中、
簡単美味なレシピ情報が
その辺に、腐るほど、
溢れている。
その情報通り、
材料を切り、分量通り、
鍋やフライパンにぶちこみ、
火を通すとか、
何とかすればいい。
それだけの事だ。
だが、私は料理が嫌いなのである。
◼️安全性と味と、栄養。
他人に提供し、
金銭を要求するわけではない。
自分で食べるだけの料理、である。
映えを気にする必要さえ、ない。
ただ、口に入れて安全で、
美味しいものであれば、良いのだ。
栄養価が高ければ、なお良い。
(栄養価が無い食べ物など、ほぼない)
作れば良いだけ、である。
だが、私は料理をしたくない。
◼️最後の詰めが、面倒。
材料を切るのは苦ではない。
(大きさを揃える気がないからだ)
洗い物やその片付けの手間も、
全く苦ではない。
(むしろ、好きである)
だが、どうしても
料理を好きには、なれない。
おそらく、
味付けが面倒臭いのだ。
◼️分量を気にし(でき)ない。
まず、分量を量るのが面倒臭い。
というか、
レシピの分量を覚える気が、ない。
レシピから視線を外した瞬間、
大さじ、小さじ、どちらだったか、
10g、20ml、30mg、どの位だったか、
すぐ忘れてしまう。
(何かの呪いだろうか。)
最終的に、
もう全部(私にとっての)
「適量」でよくね?
となる。
◼️おそらく、やる気の問題。
空腹のために調理終盤で、
「集中力が下がっているのだ」と思い、
空腹時を避けて料理をしてみた。
味付けをする調理終盤になると、
なぜかイライラしてくる。
お腹が減ってないのに、
私は、なぜ、料理をしているのだ?
的な不満が込み上げてくるのだ。
つまり、
私は我慢して料理をしていて、
その我慢が調理終盤まで
「持たない」のだ。
◼️やる気は、出(せ)ない。
そういえば、
私は「食べる」という行為が
好きではなかった。
チョコやクッキー、紅茶などの
嗜好品(既製品)は好むが、
栄養素を口経由で体内に取り込む
「食事」に意味を見出だせない。
(私は、栄養補給=生存に興味がない)
「本気で○○やってみた!」とか、
「できるようになると楽しい!」とは、
やりたい事か、好きな事か、
好きになれそうな(可能性がある)事、
に対してのみ発動する言動だ。
嫌いな事、つまり、
興味関心がマイナスな事に
ポジティブな反応をするのは、
かなり難しい。
◼️それでも私は料理する。
材料を切り、
鍋かフライパンにぶちこみ、
火を通し、何となく味をつけ、
「何か微妙だ(が、食べられる)な」
と思いながら、
その反省を次に生かす気もなく、
私は料理をし続ける。
栄養摂取と食費節約という、
純粋な動機のみに基づいて。
「料理」や「食事」という
絶対的な嫌悪が根底にある「生」とは、
本当に、マジ面倒臭い…。