終戦の日に寄せて。『蝉と戦争』(加筆修正)
夏と言えば蝉であり、蝉と言えば夏である。
蝉がミーンミンとか、ジージーとか、ツクツクホーシツクツクホーシとか、ジーリジリジリとか、シネシネとか、ファッキン!ファッキン!とか…大合唱を始めると、やっとこさ夏キタ━(゚∀゚)━!となる。
蝉の命は一週間と言われがちだが、上手いこと一ヶ月ぐらい生き延びる蝉もいるらしい。
とは言え、やはりあまりに短い。
蝉はあの小さな体で、短い生涯の中で300〜800個の卵を産む。勿論その全てが孵化するわけでもないが、それにしたって恐ろしい数だ。言ったら離散大家族なのだ。いや、核家族か。…違う?
木に植え付けられた悍ましい量の卵は、翌年の梅雨時期に孵化し、そこから生まれた幼虫がぽとりと土に落ち、地中に潜って幼虫時代を過ごす。
そのまま土の中という楽屋で「蝉さん出番でーす」と太陽さんから声が掛かるまで出番待ちをするのだが、この待ち時間が異常に長い。種類によっては長くて5年待ちである(7年というのは誰かが盛ったエピソードトークらしいです)。早めに楽屋入りしたのに2年〜5年待ち続け、ようやく出番が訪れるのだ。
しかしそんなに大量に、土の中に幼虫がいるって、想像するとそれだけでなんか凄い。その時期に土を掘り返したら、潮干狩りぐらい幼虫出てくるかも知れない。
あと、蛹にならずに成虫になることを『不完全変態』って言うらしいです。不完全な変態…。うふっ♡
「蝉さん出番でーす!」
さて、いよいよ出番である。
土から出て来た幼虫たちは2〜3時間掛けて脱皮する。ここまで来てまだ焦らすのだ。ずいぶんと時間の掛かるストリップだ。そして脱ぎ捨てた脱殻は、フィギュアのように光沢があって、とっても格好良い。
そうして満を持して、やっとこさ飛び立つ。
その短い生涯においての生活内容とは…
まず、ひたすら鳴く。これが蝉のアイデンティティである。「夏と言ったら俺らだぜーいっ」と、ひたすら大合唱する。基本的には日中に鳴くが、空気を読まずに夜中に鳴く奴もいる。気合いと根性的な精神論なのか、単に目立ちたがりなのか、暑さでバグっているのかの何れかだろう。…嘘です。単純に種類によって鳴く時間帯が違うのと、夜中に鳴くのは気温(25℃以上)と光の関係らしいです。本来は夜中は大人しくしているそうなので。寝ないけどね。明石家さんま。
鳴く以外ですることと言ったら、たまに飛んだり、停まって休んだり、憎たらしい人間どもに小便ひっかけたり、『死んだフリして油断させて、急に動くドッキリ』を仕掛けたり、まぁそんな感じ。後は大量のマジュニアを無差別に撒き散らすぐらいだ。こわ。
死に場所は選ばない。「あ、俺逝くかも」と思ったらすぐ逝っちゃう。早漏なのだ。「もうイッちゃうの?」と言われたって我慢出来ないのだ。なんとなく果てる寸前に暴れてはみるが、もう逝ってしまっているのだ。「お前はもう死んでいる」のである。アータタタタタタッ!アターッ!!ごめん。
そんなわけで、夏も中盤になるとそこら中に蝉が死んでいる。公園に、道端に、マンションの階段やベランダに、自転車のカゴにも。
それは仕方がないこと。彼らは死に場所を選べないのだから。
当たり前のようにそこら中で死んでいるせいで、蝉の死骸を見て慈しみを感じることも無いし、彼らに対して想いを馳せることもないし、ましてや手を合わせたりもしない。ただただ「死んでるなぁ」と思うだけだ。何年もかかってようやく羽ばたいた蝉の命の価値は、悲しいほどに軽い。
そんなことを考えていたら、戦争中って人の命の価値もこんな感じだったのかなぁなんて思ってしまった。
敵の兵士にとっては人間の死体なんてゴミみたいなものだ。邪魔でしかない。必要なのは狂気であって、慈しみの心ではない。祖国の為に、片道分の燃料しか入っていないハリボテの戦闘機に乗り込む。選択の余地は無い。そしてその大半は相手にダメージを与えるでもなく迎撃されて犬死する。…犬死なんて、犬に失礼だ。
彼らもまた、死に場所を選ぶことなんて出来なかった。
過去の戦争について、幾つかの本を読んだり映像を観たりして調べたこともあるけれど、美化することも卑下することも私はしない。出来るわけがない。ただただ、平和な現代を生きられることに感謝するだけだ。
蝉とあの頃の兵士を同じとは言わないが、蝉の死骸を見た時にも「夏を告げてくれてありがとう」と、心の中で思うようにしよう。
始めの方の件でさんざふざけてごめんよ、蝉。
今年も賑やかに夏を告げ、暴力的に暑いこの季節を盛り上げてくれている。
明日も元気に鳴いてくれ。
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こちらは2年前に書いた記事に加筆修正を加えたものです。ロシアによるウクライナ侵攻から5ヶ月が経過した頃。そしてそれは、未だに終わりが見えない状態です。その間に今度はイスラエル・パレスチナ紛争が勃発しました。こちらも終わりの見えない戦い。いずれの戦争も、数多くの民間人が巻き添えになり、本当は戦いたくない人々が戦争に借り出される。
世界の多くの人々が世界平和を願っても、強欲な権力者たちがいる限り、戦争はなくならないのだろう。この世界はそうして創られてきたのだから、そう簡単には変わらないのかも知れない。強欲な権力者たちの耳には、私たちの言葉は届かないのかも知れない。
だからこそ、この平和な現代の日本に生まれたことを幸せに思う。奇跡的な確率で、この素敵な国に生まれ育ったことを、幸せに思う。
本文の終わりにも書きましたが、私は過去に行われた戦争について、肯定も美化もしませんし、ましてや否定もしません。日本を護ってくれてありがとうごさいましたと、感謝することしかできません。
このまま日本が平和であるように。
できれば世界から戦争がなくなるように。
今日のこの日に、祈りを捧げます。