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カオスジャパンが遺したもの

 こんばんは。昨夜はYouTubeでGONDWANA NAMIB PARKのライブカメラを観ながら寝落ちることができたので幸せでした。今日も一日、ナミブ砂漠に想いを馳せながらだらだら過ごせました。よくできました。

山中瑶子監督の『ナミビアの砂漠』観ていないひとはぜひ観てください。おすすめです。

「子どもの悪戯」のつづきです

 小学生による小学生の股観察。母が「子どもの悪戯」(悪ふざけ)といったこの行為について、やっぱりあっちよね、「性犯罪」の方であるとわたしは思う。だってそれはわたしのなかに黒く冷たい闇として長いあいだこびりき、おそらく死ぬまで消すことはできないものとなったのだから。もしそんなことをこっちの「悪戯」(悪ふざけ)という世界ならば、残りの人生毎日大泣きするほど悲しいではないか。そんな世界で決してあってはいけないのだ。

 けれどわたし、最近ようやく大人になったもので、今なら分かることもあるんだ。あの人がわたしにおこなった1年にもおよぶ股観察。

「お前ふざけんなよ、土下座して一生償え!!」

なんてことは言わないし、いまさら謝罪も求めていない。それに、あるいはあの日のことは社会や大人がそうさせたのかもしれない……って思ったり思わなかったり。

あの平成初期という時代は、子どものわたしでもわかるほど気持ちが悪い時代だった。それはたぶん、そのひとつ前の「昭和」というカオスな時代の名残りのせい。わたしがほぼ確でそう思うようになったのは、Netflix日本オリジナルドラマシリーズ『全裸監督』を観たときだった。

 『全裸監督』では、日本のバブル期である1980年代から1990年代のバブル崩壊後までの時代を背景に、AV監督・村西とおるの自伝が描かれている。P.T.Aの『ブギーナイツ』のような作品かも?と、ちょっぴり期待しながら鑑賞してみることに。ポルノ業界で働くひとびとがそこにかける情熱やプライドをもって挑戦する姿にはときおり心が動かされることもあり、「この時代の裏にこんなことがあったのか」と勉強になった。しかし結論、

で?

というのが正直なところ。そんなポルノ業界の内側を観ながら、

で、彼らが世に放ったポルノ商材が充満する社会ってどうよ?

という漠然とした気持ちの悪さが、ほんの少しわたしをイラつかせた。

 街にはピンク映画館、住宅街にはアダルトビデオ店が平然と並んでいる。テレビの深夜放送やバラエティ番組では乳房を露わにした女性たちが映しだされ、学校の授業を終えた夕方に帰宅してテレビをつけると教師から性暴力をうける学園ドラマが再放送されている。

わたしが小学生のころの社会はそんなだった。村西氏らが創りあげた「男たちが期待する性」が蔓延した社会の末期にあたるだろうか。そんな男たちの妄想のできそこないのような世界で、子どもたちは目のやり場に困りながら小さくなって成長していくしかなかった。ここで育った子どもたちは将来どうなるか?大人たちはそんな簡単なことも想像できなかったのだろうか。

馬鹿みたい

ポルノによってその業界やメディアが大儲けした時代の代償が、わたしのようなひとびとが負った一生消えない傷だとすると、これほど哀しくて悔しいことはない。

女になんて生まれなきゃ……、なんどそう思ったことか。

 作中で黒木香が言っていた、「性の解放」。どうぞどうぞ、それをすることは大いに自由。ただし解放の仕方はひとの数だけ存在しており、なかには解放したくないひとだっている。だから自分の性の価値観をだれかに押し付けることや強要することは絶対にあってはならない。

ただ一方で、そんな社会のなかでも真っ当に生きている大人もいれば、まっすぐに育つ子どももいる。もしかすると大半はそうなのかもしれない。

だから単に、わたしの股観察をしたあの人のことを「時代や社会、大人がそうさせた」と言い切ることは決してできない。だが、ただぼんやりと

「そうなのかもね」

とは思えるような気もする。なんとも複雑なところではあるが。

 はっきりと言えるもっとも重要なことは、正しい性教育を家庭や学校を中心とした社会全体でおこなうこと。そうやってだれもが「性」について多角的に理解を深めること。これもまたひとつの「性の解放」とも言えるのではないだろうか。

昭和というカオスジャパンが遺したものは、歪んだ性への興味と願望をもった子どもたちを育ててしまった。これは喜劇では済まない悲劇である。

すごい実業家だったのにさ、そんなひとがどうして未来の子どもたちのことを想像できなかったのか……

やはりそれだけが悲しい。

でね、はっきりというと

「子ども悪戯」
なにそれ?
未成年者による性犯罪だから。
子どもの罪は親の罪、教育しなかったことが問題。

それから母よ、被害者であるわが子によくもそんな事がいえたものだ。
あなたは自分の娘に、
「あなたを傷つけるひとや怖がらせるひとがいたら、そのひとは悪い人。あなたは悪くないのよ」
そう教えなかったことが罪だ。
娘の
「助けて」
を聞こうとしなかった罪だ。

「自分の娘の心を一番に考えなかったこと」
それはどんな理由があろうと、決してやってはいけないことだったのだ。

だからもし同じような経験をしてモヤモヤしているひとがいたら、

ちゃんと怒っていいんだよ

加害者にも
守ってくれなかったひとにも

怒って、憎んで、まずは自分のこころを大切にしてあげて

そのあとのことは、またいつか考えたらいい

そう伝えたい。

わたしもはじめは自分が悪いと思っていた。この時の記憶を失い、それが戻ったあともしばらくはそう思っていた。けれどその後自分は悪くないと思えるようになって、加害者のことも母のことも何年も何年も怒って憎んだ(母のことは思春期頃から嫌いになっていたのだけれど)。

そんな日々を重ねたうえで自分の娘にそんな想いをさせないようにと、性の話も自分を一番大切にしなければならない話もたくさんたくさんしている。その点においては貴重な経験をさせてもらったおかげなのかもしれないと、いまでは思えるようになった。

だって多くのひとは、同い年や歳の近い子、あるいは兄妹や従兄妹などの血縁関係でそんなことが起きるなんて想像もしていないだろうから。

できれば経験したくはなかったけれど、ほんの少しだけ感謝しているよ。

けれど、別にそうならなくてもいい。死ぬまで怒っていてもいいし、憎んでいてもいい。自分のことを正直に愛してあげること、それが一番の大切なことだから。

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