令和のナショナリズム
ウクライナ侵攻が始まる前のこと。オリンピックがはるか昔のよう。
日本びいき
「日本頑張れ!メダル取って欲しい!」
スピードスケート、カーリング、スキージャンプなど、手に汗握りながら応援している長女である。
日本人選手がメダルを取ると、1年生のクラスでも話題になるらしい。
私たち夫婦はそれほど熱くなっていないと思うのだけれど、祖国を応援したくなる気持ちって、どこから来るのだろう。
友だち
そんな長女、カーリング日本チームが決勝進出を決めたというニュースを見て意外なことを言った。
「日本じゃなくて韓国が決勝トーナメントに進んでも良かったんだけど…。」
「そうなの?」
と聞くと
「だって幼稚園のお友達が韓国に引っ越したから。」
友達がいる国=応援できる国、ということらしい。
近年は、日本代表といってもチーム(コーチ)の中に海外出身の人がいる。日本人が海外で活躍していることも多い。
「国の代表とは」とか「国対抗である必要があるのか」とか、考え込んでしまうのが私である。
彼女の何気ない発言は
「友達がいる国を応援する。」
というとてもシンプルな答えをくれた。
友達はほとんど日本人だから、当然日本を応援したくなる。でも、友達がいる別の国も応援する。それが自然にできたら、確かに平和の祭典っぽい。
オリンピック精神と薄皮饅頭
元々はスポーツを通して私たちのこころを開く、それがオリンピックの理念だったはずだ。
しかし、ドーピングや審判の問題など、多くの人のこころを閉ざしてしまった。
子どもはそうではない。私たち大人より、饅頭の薄皮(父ちゃんの記事参照)が未成熟で、それゆえに開いているのだと思う。
失ってはいけない子ども性というものを損なってしまう私たちの社会とは何なのか、改めて考えたい。