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300日目(支援者と被支援者)

支援者あるある

人を助けたいという人の中にはちょっと危うい人がいて、その人自身が要支援なのではないかということがよくあるらしい。ある団体の代表は、誰かと協力してやっていきたい気持ちがあるのだが、なかなかうまくやれず、結局一人で苦しく活動している。別の団体では、支援をしていること自体に満足していて、その資金ぶりやビジョンが危うい。そんな話があるそうだ。考えてみると、学校でもそんなことはよくある。思いが先行して体や行動がついていかず、非支援者との関係が作れないと、その人自身も非支援者になる、そんな話だ。

支援者と非支援者の境界線 

ところで、この二つは、明確に区別できるものだろうか。私の知る限り、そんなことはない。一生懸命会社のために尽くしているサラリーマンが家で愚痴を配偶者に聴いてもらう。学校の先生は、クラスの子どものために一生懸命働く反面、仕事漬けで家庭のことは全て配偶者がやっている。学校では友達に優しく勉強を教えてあげる子どもが家ではちっとも宿題に取り掛からない。ちょっと落ち込んだ時、親が子どもと遊んで癒される。そんなことがある。ところが現代社会では、支援する者の専門化が進み、与えるものと与えられるものもはっきり分かれた。果たして、与える人は与え続け、与えられる人は与えられ続ける。支援が定義されると支援の方向は固定化される。

いつも送っていく男の子

ぽんぽんでなかよくなった男の子は

「今日も送ってくれますか」

と毎週のように言う。近くなので全然構わないのだが、その子にとっては割と切実な問題で、なぜならその子は同じ場所に長くい続けるのが苦手だからだ。この意味で、わたしは彼を支援している。一方で、長女は彼と帰るのをとても楽しみにしている。

「きょうは一緒に帰れる?」

少しだけ不安そうにわたしに聞く。帰れるのが分かるととても嬉しそう。長女の毎週の楽しみになっている。

支援されることで支援することもある。何かをお願いされることで救われることがあるのだ。

帰りの車はいつも子どもたちが楽しそう。そんな姿を見て、わたしも嬉しくなる。ただ車で送る、そんな誰でもできるようなことをしてあげることが案外みんなが幸せになる支援なのかもしれない。

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