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大浴場と帰属意識

よくアニメなどでお金持ちの登場人物が登場する。それがたとえ同じ教室の中で出会った友達でも、お金持ちの人もいれば片親しかいない人もいて、しかし普段の生活では些細なところ(持ち物、言動、考え方)でその差が現れようとお互いが違うことを当たり前と捉え、それでも共通の話題などで盛り上がるシーンが映し出される。
出張中のホテルに設立されていた大浴場に入浴していた時にそれを思い出した。たとえばアニメの中の「お金持ちのキャラ」は、たまに友人を家に招いた時に、自身の超豪邸を恥ずかしくなりながらも見せる。時に、その豪邸に皆でお泊まり会をして、大浴場のような広々としたお風呂に皆で入る姿が描かれる。そのシーンを見ながら、たとえ一軒家だったとしても大浴場がある家はそうそうないだろうと感じていた。
出張期間中はそのホテルで寝泊まりをする。それゆえにその時に自身の家と化したそのホテルで毎日大浴場に入れるという状況は、あたかもそのキャラの超豪邸の大浴場に似たものを感じた。尚且つそのホテルの大浴場は時間帯によって貸切状態に遭遇することができる。まさに自分だけのための大浴場そのものに思えた。

と言いながら、私はこれらのことをスマホ画面に映し出されるSNSに投稿しようとしていた。
唐突だが、私はSNSに対して悩みを抱いていた。私にとって、SNSは思ったことを呟くネタ帳のような存在であり、ストレスに思ったことを(常識の範囲内で)発散する場でもあった。また、そのSNSは非公開アカウントであり、知り合い20人ほどがフォローしていてる(そのうち10人程度が活動している)状態だった。思ったことをアウトプットすることは認知機能を維持する上でも重要と考えていたし、その場でスマホで簡単に投稿し確実に誰かは見てくれるという意味で、それらをアウトプットして誰かがキャッチしてくれる循環は私の日常生活に必要不可欠なものとなっていた。
しかし、それらに発散することは、いくら知り合い相手とはいえ、その人たちが私の投稿にどう感じているのか見えないことは非常に危険である。これはただのネタ帳・壁打ちとは違い、知り合い20人が見ている。アウトプットとキャッチの循環の中で、誰かが見てくれているという安心感に浸り、(いくらミュート機能、フォロー外し機能があるとはいえ)そこになんでも投稿しても良いという気にさせられた。実際知り合い20人がどう感じているのか顔がリアルタイムで見れるわけではない。本人たちと対面した時にSNS上で投稿する内容を話するかは全く別だ。
実際に逆の立場で、知り合いたちの日記にも似た投稿を、私は毎日見ていた。彼らは日常の愚痴や感じたことをありのままに投稿し、お互いの直接的なマイナス感情を投稿するようなことはしない。知り合いたち同士で互いの日記を公開し、たまにお互いの共通の好きなことを共有する。一種のコミュニティのような状態が出来上がっていた。
ただ、私自身がメンタルが弱っていたり疲れていたりする時に、タバコのような感覚で一息つくためにSNSを開くと、彼らの日記の些細な言動が気になった。つまり、彼らも私と同じくストレスの発散として投稿をする。その愚痴に、(私は一切関与してないとはいえ)一喜一憂してしまうのだ。
ミュート機能などを使えば、相手に通知が行くことはなく、タイムライン上で彼らの投稿が目に入ることはなくなる。とはいえ、その知り合いたちの日記や考えがすごく知りたかった。こういうと聞こえがいいのかもしれないが彼らを含むコミュニティが心躍るものであり、彼らのことがとても好きだったのかもしれない。しかし、居心地が良いと、好きは全然違う。心躍るそれらが、心の平穏を求めている時には疲れるものに変わってしまうのだ。

大浴場に浸かると、水面から反射した光が、シックな天井をゆらゆらと動いていた。大変気持ちが良く、ずっと浸かってそのゆらめきを眺めていたかった。
死後の世界はどういう世界なのか、はたまた無意識な世界なのか、私にはわからない。ただ死後の世界が幸せな状態だとしたら、心躍るようなものがあり続けて、尚且つ安定的な安らぎがあって欲しい。しかし、心躍るものが、波が高いものであってほしくない。楽しさと悲しいことが交互に大きく来ることはなく、平穏が常にあり、楽しさがたまに大きく来て幸福を覚えるぐらいがちょうどいい。
SNSを絶ってから3日ほど経ったが、常にSNSを見ていたせいか、タバコのような一息つくことが出来ないことに苛立ちを覚え始めた。SNSの彼らに一種依存していたのかもしれない。彼らと繋がることは対面で会った時のみだということを心に促し、苛立ちを抑える。時に誰にも見えないスマホのメモ機能を使い、自身の思ったことを書き記すようにしている。

アニメの中の、大浴場が家にあるお金持ちのキャラはどう感じていたのだろう。教室の仲の良いグループは、自身の境遇・考え方とは違う人たちが集い、とはいえ心躍るような出来事がたくさん溢れる。しかし、家の中での自分(そのキャラ自身)と教室のグループとの自分では、随分心の動き方は違ったのではなかろうか。

最後に、SNSを断つ上で調べていていたときに見つけた記事の中で、「SNSのデメリットの一つは帰属意識の芽生えである」という考えを見た。上記のような一種のコミュニティを形成し、SNSを見ることで彼らと繋がれる意識を持つ。とはいえそのコミュニティに適度な距離感も大切であることが理解できる。

追伸:SNS断ちにおける離脱症状の対処法はまだ模索中なので、別記事でまとめる予定である。