noteとは(7日経過)
定点観測的に自分がnoteに持つ印象や使用感を記していこうと思う。
今回はnoteを始めた理由と、始めてから7日経過した今のきもち。
もともと自分はツイ廃と呼んでいいほどのTwitter民。
歴は10年くらいだろうか。
noteを知ったのはcakesから。
3年前cakesで「左ききのエレン」と「ボクたちはみんな大人になれなかった」にドはまりし、その流れからnoteを読むようになった。
この1年はnoteを本当にたくさん読んだ。
「いろんなことをやってるひとがいるんだな~」「おもしろい生き方があるな~」「素敵な文章を書く人がいるな~」と感動してはTwitterに流してきた。
ずっとそれが楽しくてそれでよかったのに、
最近になって思いもよらない弊害が出てきてしまった。
結果としてその弊害こそがnoteを始めるきっかけになった。
弊害ひとつめは活字中毒。
サクッと読める長さで読感が心地よいものが多いため、気がつけば仕事の合間やちょっとした隙間時間をほぼnoteに費やすようになっていた。
ホームを読んでおすすめを読んでピックアップを読んで、読み尽くしてしまうと関連から拾って検索から拾ってタグから拾ってとにかく読む。
そこまでならまだ良かったが、
ついにはお風呂の中でシャンプーやトリートメントの成分表を1日何回も読む、興味もないのに三代前の会社の会長の自伝を仕事しながら読破する、全く必要性がないのに手に届くところに置いてあったという理由だけで家電の説明書を熟読する、その他諸々、
どう考えてもおかしい具合になってきてしまった。
ひたすら目を埋めたい中毒になってしまっていた。
楽しさあっての行為がただの行為に乗っ取られてしまった。
そこでやむなくこの活字中毒が抜けるまでnoteを読む量をセーブすることにしたが、もはや習慣化したnoteとの関わりを減らすのもものたりないと感じ、ならば読み手ではなく書き手の立場になってみようかな、と思った。
弊害ふたつめはTwitterへの飽き。
TwitterをSNSと呼ぶかどうかはさておき、人が集まる場所にはそれがネット上のツールであってもそれぞれにカラーがありルールがあり雰囲気がある。
フォロワーさんたちにも恵まれ、リアルで楽しく遊んだりもしたし、Twitterには楽しい思い出しかない。
が、飽きてしまった。
人にではなく場が持つそのカラーにルールに雰囲気に。
合わなくなってしまったとも言えるし、合わない場所にいることが疲れたとも言える。
なぜTwitterが合わなくなったのかといえばnoteのせいだと言っていいと思う。
先述のとおりツールにはそれが作りだす雰囲気がある。
Twitter的なスタンスよりもnote的なスタンスのほうが合うようになったせいだというか。
しかしこれがけっこう堪えた。
Twitterでは自分が徒然と思考したことをダダ漏れさせていたので、その漏れ出せる場がなくなるというのはガス抜きができないようで苦しいし、習慣を突然100%断つという意味でも苦しいことだった。
noteにはいろんな方面のためになる記事が多い。
作品やアクティビティの発表の場でもある。
だからといって雑感メモや記録日記としての使用が推奨されていないわけでもない。
ならばTwitterからnoteに場を変えればいいかな、と思った。
以上、「note読みすぎ」と「Twitter飽きた」というのがnoteを初めた理由。
要約すると「なんとなく」といったところ。
noteを始めて7日経った今のきもちとしては、
改行が思う通りにできなかったり、
行が半分消えて見える(写真)ことが多々あるけど解決法がわからない。。。。
まだまだ使いこなすには遠いな。。。。。
というきもち。
精進します。