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情況2024年夏号トランスジェンダー特集について①塩野谷恭輔さんの文章の紹介

情況のトランスジェンダー特集について書きます。
「トランスジェンダーの権利擁護と、開かれた議論のために」(塩野谷恭輔)とだけあって、トランスジェンダーの権利推進派(トランスジェンダリズム推進派。TRA=トランスライツ活動家とも呼ばれる)だけでなく、キャンセルされてきた側の文章も載っている革新的な号です。
キャンセルされてきた側の「自称」というのは特に定まっておらず、他称TERF(トランス排他的ラディカルフェミニスト)ともGC(ジェンダークリティカル)とも言われますが、しっくりくる呼称はないのが現状です。
実際、その名が当てはまらない人が大勢を占めており、やはり、反TRA(アンチトランスジェンダリズム)と呼称するのがふさわしいかもしれません。
キャンセルされてきた側としては「斎藤貴男」「岩波明」「白井聡」「生野頼子」「森田成也」「小谷野敦」「千田有紀」「谷口一平」「佐藤悟志」(敬称略)というそうそうたるメンバーが名を連ねているが、「名前を出し、キャンセルされたが筆を折らなかった」くらいしか共通点がない。
反TRAとして長文を書け、肩書のある人たち。

両陣営のまとまった文章を読めたのは、得難い経験だった。誰が何を考え、どういう筋道でこの結論に至ったか。Xではどうしてぶつ切りで「個々人の考えの流れ」までは追うことができなかった。

今回私がしたいことは、それぞれの文章の要約である。文章の流れが追いにくいものや、「その人の言いたいこと」を読み取るために必要な前提を補足する必要を感じたものなどがあったため、読解のための補助線を引きたいと思った。

「トランスジェンダーの権利擁護と、開かれた議論のために」―続・「キャンセル・カルチャー」試論 塩野谷恭輔

塩野谷さんは編集長で、第一回東大女装子コンテスト準グランプリで、表紙のモデルさんでもあるとうわさがある。

なぜ、この「トランスジェンダー特集」をしたのか、塩野谷さんがどのように現状を分析しているかが書いてある。
一では「ノー・ディベート」「ノー・プラットフォーミング」などのキャンセルカルチャー批判をしている。
右派からの批判についての説明がある。
右派は、左派にポストモダニズムを見出し、かつての階級闘争の「階級」に「アイデンティティ」を代入した権利活動をしていると左派批判している。
塩野谷さんはその説明をした後に、しかしその批判はおかしいと否定している。階級闘争では階級は廃止されるものであるが、アイデンティティは消滅ではなく承認を求めているから、というのが根拠である。

二で塩野谷さんは「ジェンダーのグラデーションと二分法は必ずしも矛盾しない」と述べており、この点については私も同じ意見だ。

三では、塩野谷さんは「キャンセルカルチャーについて、歴史意識の欠如という観点から批判した」と述べている。
また、

現在に用いられている「トランスジェンダリズム」という語を仮に、性自認至上主義として、つまりトランジェンダーは特別な配慮や移行段階を飛び越えて性自認に沿って社会生活を送ることができる(べきだ)という立場として理解するなら、これは身体的特徴を一切無視した立場ということになる。
トランス当事者による公共施設利用をめぐって噴出している懸念は、性自認至上主義の立場に対して向けられたものである。―略―だが、法制化のような社会実装の際に、トランス女性を自称するヘテロ男性の性犯罪者が女性スペースに侵入しうる危険性を排除することは事実上不可能である

情況2024年夏号9p塩野谷恭輔

と論点の交通整理をしている。
四.仮想化しきれない身体の章では

TRAも反TRAも両者ともに互いを「身体化を軽視している」と批判しているのである。そこの「身体性」の指すものが互いに相いれないものであるとしても」

情況2024年夏号9P

と分析を試みている。
またバトラーについては

こうしたパラドックスに対してバトラーが提起するのは、身体に対するジェンダー化の作用を一度きりの構築としてではなく、反復的な実践として理解することである。ジェンダー化の規範が引用的・反復的にセックスによって引き受けられることによって、身体は時間をかけて物質化を推し進め、安定化していく。行為遂行的な物質化は、反復的な実践であると考えられている。

と説明してくれているので、私は「C言語のポインタみたいだなー」と思った。セックスが番地で、その番地の中にジェンダーが入っている。番地であるセックスは不可変だが、そのジェンダーは可変である。セックスという番地を参照していくうちに、その「中身=ジェンダー」がセックスの意味合いに代入され、ジェンダーの変化ごとにセックスを変えていくような話なのかなって。

五では、反ポストモダニズムの紹介をしている。それを理解するには注意が必要であるということと、日本のTRAの藤高さんのバトラー解釈が自我心理学的な解釈であると批判している。

六では”言論の  自由”の条件について述べている。塩野谷さんは言論の自由を無条件に信奉しているのではないと言っている。

何度も書いてきたので要点だけ述べると、言論というのは難でも自由なのではなく、何かが禁止されているからこそ、それ以外の領域について「自由」なのである。したがって、「言論の自由」を維持するにはこの禁止の領域をめぐる闘争が絶えずなされるほかない。この不断の闘争こそが私たちの「言論の自由」を支えている。

本稿では社会構築主義に陰謀論を類比したが、ウォークと陰謀論には大きな違いがある。ウォークは陰謀論のように想像的な他者に悪を仮託したりしない。その反対に、個人の些末な言動でさえ規範強化をもたらす権力行使になりうるというフーコー的な権力理解をとる。しかし大他者を認めず、あらゆる個別の実践のみが規範強化をもたらす権力行使であると解釈する運動は、必ず反転し全体主義に陥る。本物の強大な権力が存在しているときでさえ、一個人の些細な言動に目くじらを立て、統制に励むようになる。

哲学的な一つの提案だったことが、今はXの一般人が実践しているというわけだ。六年間、「ヒトモドキは焼却炉に飛び込め(トランスヘイターであるお前は人間じゃない。お前を殺す手間も惜しいし、ヒトモドキを手にかけるのも汚らわしいので、自ら焼却炉に飛び込んで死ねという意味)」と言われているので、塩野谷さんの言っていることはよくわかる。

反論を封じてしまうと、罪刑法定主義を超えた私刑さえ可能になる。

このことは、私もXでポストしたことがあったので驚いてしまった。
事前に話し合い、価値観をすり合わせて、刑罰を明文化すること。主観ではなく、客観的に何が罪になるのかを定めるためには、話し合いが欠かせない。それを「ノー・ディベート」にしてしまえば、何が罪かも話し合えない。ノーディベートのまま、暗黙の了解での悪と罰があれば、「みんながそう言っているから」だけで人をリンチするのは法治国家とは言えない。
何がよくて何がダメなのか決めるのは話し合いだが、話し合いができないのだ。今は、疑問を提示しただけでも、「左翼の偉い人」がこいつは悪だと指させば「差別者」「虐殺者」とののしられ、精神的に不安定になれば「こわしちゃった」「人間でもないのに、死にたいと思うなんて贅沢だ」とさらなる嘲笑の的になる。
私の体験では「ノーディベート」とは、相手を非人間化する行為だ。ヘイターは人間じゃないから対話しなくてもいい。誰がヘイターかはなんとなく決められる。ヘイターだと言われたら、どんなことをされてもいたしかたない。そういうことが起きる。

もちろん差別はないほうがいいので、差別的な言説について掲載するかしないかで言えばしない方がいいと私も思うが、そうすると、その言説が差別的かどうかを誰がどう判断するのかという話になる。雑誌掲載なら編集長判断だし、社会的には司法が判断するだろう。ところが、その判断基準は必ずしも客観的でも普遍的でもないので、論争が起きることは必定である。

すなわち、超越論的な視座という大他者を、それが存在しないことを知りつつ同時に認めることによってはじめて、特定のイデオロギーに同一化し、議論に参加することができるのである。

結論としては、
何が差別なのか、その論争をしてもよいのかどうか、に対する普遍的な結論はない。
常にその判断基準について論争するべきで、その論争があればこそ「言論の自由」というフィクションが担保できるということだ。そのために、情況がその場を提供したという内容が書かれている。

すごく時間がかかったので、ほかの人のまでやれるかわからないんですが、できる限りやってみます。続く。

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