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私と津軽

 誰もが通る道だろう。中学2年生の時、国語の授業で太宰治の「走れメロス」を習った。
 国語の先生は3年間同じで、私の所属する吹奏楽部の副顧問の先生でもあった。だから親しみがあったし、自分と決して歳が近いわけではない生徒の気持ちに寄り添う先生のことが好きだった。その先生は、S先生といった。
 S先生は、太宰治のファンだった。私は「走れメロス」を習うまで太宰治のことをよく知らなかった。先生がファンであることも知らなかった。だから、国語の授業で太宰治のことを「ダサイ治」と言って笑っている男子生徒を、真剣な顔で注意したS先生を見たとき、少し驚いた。
「先生、太宰のファンやから。あんまりふざけたこと言ってると、許さへんで」
 男子生徒も驚いたのか、それから「ダサイ治」と言うことはなくなった。
 先生は、メロスを一通り朗読して聞かせてくれたあと、自分の所持しているプロの朗読CDや、太宰の墓で、名前が彫られているところにさくらんぼを詰め込んでいるファンの映像を見せてくれた。今思えば、あれは桜桃忌の映像だった。私にとってはとうの昔に亡くなってしまったよく知らない作家だった。夏目漱石や芥川龍之介の生きた年代もよくわかっておらず、無知な子供だった。だから、亡くなってずいぶん経った今でも熱心なファンがたくさんいて、お墓にお参りしに行くのだ、と知って少し驚いたのを覚えている。
「先生は数年前、ここに行きました。彼の出身は青森県の津軽地方で、そこには生家が残っていて資料館になっています。そこにも行ったことがあります」
 桜桃忌の映像を見ながら先生はそう説明してくれた。そのとき、私は初めて斜陽館の存在を知った。

「走れメロス」の授業は数回にわたって行われ、先生は最後に、
「この作品はこのあとどうなるのか、自分で考えて書いてみましょう」
という、いわゆる二次創作の課題を出した。誰もが知っている通り、メロスは人質になった友達のために昼夜問わず走り続け、そしてぎりぎり約束の時間に間に合うのだ。そして民衆を脅かしていた王はその友情に感動して話が終わる。

 ひとりの少女が、緋ひのマントをメロスに捧げた。メロスは、まごついた。佳き友は、気をきかせて教えてやった。
「メロス、君は、まっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、メロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ。」
 勇者は、ひどく赤面した。

「走れメロス」


 私は、この最後の部分に出てくる少女に注目した。メロスとこの少女がうまくいって、結婚するところまでを書くことにしたのだ。
 課題は原稿用紙などではなく、ノートに手書きだった。コンプレックスでもあった私の拙い字で、メロスと少女の物語を紡いでいった。文章を書くのが好きな私は、文を書く課題が出たのがうれしくて、ノートの2、3ページほどにわたってたっぷり書いた。
 その課題を提出した数日後、先生は授業でこう言った。
「よかった作品を集めて、匿名でプリントに載せました」
 プリントが3枚ほど、思い思いの「続・走れメロス」が、クラス全員に配られた。私の作品は載っているんだろうか。どきどきしながらプリントを繰ると、2枚目の後半に、私の書いた「続・走れメロス」が載っていた。
 先生はそれぞれの作品について良いところと直したほうがいいところを挙げていった。私の作品について、どういう言葉を言われたのか、残念ながら記憶がおぼろげだが、褒められたということだけはよく覚えている。


 その次の年、中学3年生になって、S先生が担任になった。嬉しかった。学校の授業ではどの教科よりも国語が好きだったし、S先生のこともやっぱり好きだった。
 学年が変わるとすぐに家庭訪問があった。中学3年生になったばかりの私はなんとなく受験や塾、学校に対して不安を感じていた。
 私は中途半端に勉強ができた。それによって、勉強が苦手だった父が私に大きな期待をしてしまっていた。この子はもしや進学校に行って、有名大学に行くのではないかと親戚の間でもてはやされてしまっていた。そしてそのことを、私自身も理解していた。期待にこたえなければいけない。結果を出さなければいけない。そう思って塾に力を入れる毎日だった。
 父方の祖父は学歴の高いほうで、出身高校は県内の名門校だった。中学3年生、祖父と同じ高校に行くかどうかの選択もそろそろしなければならない時期だった。学校ではクラスメイトとあまりなじめず、部活も2年の終わりで辞めてしまい、自分は社会でうまくやっていけるタイプの人間ではない、と理解し始めていた時期だった。そのときまだ、そういったことは、S先生には言うつもりはなかった。自分自身、まだ子供で、そういった悩みを言語化できていなかったということもある。
 家庭訪問の日、私はなぜか古本屋に行った。何かほしい本があったわけでもない。何かから逃げていたのかもしれない。その古本屋で、太宰の作品集とゲーテの「ファウスト」「若きウェルテルの悩み」、そして当時流行っていたライトノベルを買った。
 まだ語彙力が乏しかった当時、ゲーテは難しくてほとんど読めなかったし、太宰の作品も近代文学独特の文体に慣れていなかったので、あまり多くの作品は読んでいない。

 私が太宰の作品をしっかり読んだ覚えがあるのは、受験勉強も本格的に始まった夏休みのことだった。夏休みは、塾の夏期講習がみっちり入っていた。朝7時半から昼の1時までで、課題もどっさり出る。そのために、早起きが苦手な私は、祖父母の家に泊まり込んでいた。祖父母はとても早起きで、朝5時半くらいには起きて朝食を作ったり、犬の散歩をしたりしている。だから実家にいるよりも、起こしてもらいやすいだろうと考えたのだ。
 地獄の夏期講習が始まる数日前から、祖父母の家で学校の宿題をしながら過ごしていた。そんな中、「斜陽」を読んだのだ。きっと、S先生が授業で太宰の作品を紹介したときに挙がっていた作品の一つだった。多くの人は「走れメロス」で出会い、「人間失格」に行く人が多いように思うが、私はなぜか「斜陽」を選んだ。
 幼い私には、書かれた時代背景もよくわかっていなかったと思う。ただ、最後の哀愁漂う終わり方に、私はしっかりと感動した。
 それから、地獄の夏期講習が始まった。実は、滋賀県立高校の数学の入試問題は、日本で2番目くらいに難しいと言われているらしい。昼の1時に塾が終わって帰宅し、昼食を食べて課題を真面目にやっていると、夜12時くらいになってしまう日が多かった。そんな生活を8月頭からお盆まで繰り返した。すると、お盆休みを過ぎると、体が動かなくなった。
 塾に行くことができなかった。朝起きると、体が思うように動かない。昼ごろまでそのままじっとしていることが多くなった。初めてのことに私は戸惑った。
 私の人生は、そこから転げ落ちていく。実は水面下で両親の離婚の話が進んでいたことを後から知った。母親の不倫が発覚したからだ。私は塾だけでなく、夏休み明けからまともに学校に行くことすらままならなくなり、強迫性障害という精神病と鬱を発症していたことが分かり、病院へかからなければならなくなった。
 秋に両親が離婚し、母親と妹の3人暮らしが始まったが、母親は仕事が終わっても深夜まで家に帰らない日々が続いた。食事は作ってもらえなかった。
 冬、S先生と個別に話したことをよく覚えている。S先生もさすがに見かねていたのだろう。私を個室に呼んでくれて、じっくりと話をした。
 私はそのとき、こう言った。
「家のこともありますけど、それだけじゃなくて、私は学校に馴染めてないんです。クラスが変わるたびに、クラスの雰囲気を考えて、自分のキャラクターを作っていたんです。演じていたんです。そしたら、3年になって、何が本当の自分なのかわからなくなってきたんです」
 中学3年生がこんなことを言い始めたら、普通の大人であればきっと鼻で笑うかもしれない。それは思春期特有のものだと。でも、S先生は違った。
「それは、しんどいなぁ。ずっとそうなんか」
 それだけを言った。否定もせず、そうやって演じている私を肯定もせず、ただそこにある辛さだけを認めてくれた。

 3月、父方の祖父の出身である名門校を受けたが、私は落ちた。学校に行っていないあいだの学力低下と、成績の低迷、出席日数の悪さが原因だったのだろう。そのあと滑り止めの私立高校に入ったが、夏頃また学校に行けなくなり、通信制高校に転校した。生きるので、精一杯だった。

 通信制高校に入ってから、学校の本棚に置いてあった「人間失格」を読んだ。私が通っていた通信制高校には図書室のようなものはなく、自販機のある休憩室があるだけだった。しかし、そこには誰かが持ち寄ったのであろう、ジャンルも著者もバラバラの本棚がひとつあった。人間失格はそこの蔵書の一部だった。通信制とはいえ、完全に学校に行かなくていいわけではなく、いわば自由登校で。出席日数はカウントされないが、学校に来て授業を受けてもいいし、受けなくてもいい。私は外に出ること自体は好きだったので、学校に毎日通っていた。お隣の京都府だったので、通学は1時間弱ほどかかった。その行き帰りの電車の中で、人間失格を読んだ。
 人の気持ちがわからないという主人公の大庭葉蔵は、人の生活に馴染むため、「道化」という方法を思いつく。つまり演じるのだ。人を理解できないという自分自身を押し殺して、周りを笑わせ、楽しませるという演技をするのだ。

 そこで考え出したのは、道化でした。
 それは、自分の、人間に対する最後の求愛でした。自分は、人間を極度に恐れていながら、それでいて、人間を、どうしても思い切れなかったらしいのです。そうして自分は、この道化の一線でわずかに人間につながる事が出来たのでした。おもてでは、絶えず笑顔をつくりながらも、内心は必死の、それこそ千番に一番の兼ね合いとでもいうべき危機一髪の、油汗流してのサーヴィスでした。
 自分は子供の頃から、自分の家族の者たちに対してさえ、彼等がどんなに苦しく、またどんな事を考えて生きているのか、まるでちっとも見当つかず、ただおそろしく、その気まずさに堪える事が出来ず、既に道化の上手になっていました。つまり、自分は、いつのまにやら、一言も本当の事を言わない子になっていたのです。
 その頃の、家族たちと一緒にうつした写真などを見ると、他の者たちは皆まじめな顔をしているのに、自分ひとり、必ず奇妙に顔をゆがめて笑っているのです。これもまた、自分の幼く悲しい道化の一種でした。

「人間失格」


 これは、中学生の頃の私じゃないか。私は驚いて、ページをめくる手が止まらなかった。電車では、座れなくてもページをめくった。
 そうして読み終わったとき、私は考えた。S先生は、私が「演じているんです」と言ったとき、どう思ったのだろう。太宰のファンである先生が、人間失格のこの「道化」という単語を知らないわけがない。しかし、あのとき一言もそんな話はしなかった。S先生は、この作品を知っていたからこそ、私のことを否定も肯定もしなかったのではないだろうか。
 私は中学を卒業してしまっていて、S先生に会いに行く理由もない。今となっては、わからないままだ。

 そして、人間失格を読み終えた私は「こんな人間でも生きてていいんだ」と、涙が出そうになった。私の生きづらさは、「こうでなければいけない」「こうしなければいけない」ということの連続で、「生きる」ということのハードルを上げていたからこそのものだった。それがなくなって、ただひたすらクズでも生きていていいなら、私は生きていてもいいってことにならないだろうか。そう思った。やっと、親もめちゃくちゃで、病気になり、薬を飲み、高校に落ちて通信制に行った自分を許せそうな気がした。


1日目

 飛行機が離陸しようとするとき、「当機はこれから離陸いたします」とアナウンスが流れ、急に速度が上がって、キィンという機械的な音が大きくなって、それから機体がミシミシと軋んで、ふわりと斜めに飛び上がる。あの瞬間が、好きだ。だから、音楽も聴かないし、本も読まない。飛行機が高度を上げきって、シートベルトサインが消えてから、ようやく窓から目を離すことができる。
 伊丹空港を出て、シートベルトサインが消えると、私はようやく本を開いた。太宰治の「津軽」だ。以前から岩波文庫版を買っておいたのだが、津軽どころか、東京よりむこうに行く機会の少ない私には、出てくる地名たちの位置関係が分かりづらく途中で読むのをやめてしまっていたのだ。それを、今回津軽に行く機会にしっかり読んでみようと、本棚から引っ張り出して、少しずつ読みながら持ってきていた。最近フリマアプリで購入した太宰治全集が本棚に並んでいるが、持ち運びやすさを考えて岩波文庫版を連れて行くことにした。

「ね、なぜ旅に出るの?」
「苦しいからさ。」

「津軽」


 本編の始まりのこの台詞で有名な「津軽」は、当時東京に住んでいた三34歳の太宰が依頼を受けて、地元、津軽地方を旅行して書いた長編の作品だ。
 飛行機に乗った段階で、既に半分ほどは読み終わっていた。どうしても、青森を巡る前に最後まで読んでおきたかった。今回の旅行は祖父母と一緒だったので、隣に座る祖母が「あれ見て」などと窓の外を指しながら頻繁に話しかけてきたが、それでも私は最後まで読もうと努力した。祖母からすれば、せっかく飛行機に乗って旅行に来ているのに、本を読んでいるほうがどうかしているのかもしれない。それでも、この本だけは、と思って読むことをやめなかった。
 青森へ向かって出発したのは6月19日。太宰の誕生日であり、入水したあとに遺体が見つかった日でもある。だからこの日を「桜桃忌」として、関係者やファンが何年も死を悼んでいる。
 この日に出発しよう、と決めたのは実は私ではない。青森旅行自体、私が先導して決めたことではなかった。


「青森行くために、10万円貯めてんねん」
 いつか、祖父とそんな話をした。
「なんで青森やねん」
 祖父は不思議そうに訊いてきた。私は太宰の生家がある青森県五所川原市に行きたいということを初めて話した。
「それやったら、じいちゃん六月ごろにゴルフしに青森行こう思てるから、一緒に行ったらどうや」
 私は「それなら早く言ってよ!」と言いつつ、祖父の提案にありがたく乗ることにした。そして、祖父は5月ごろ、日程調整のために連絡をくれた。
〈6月19日から6月22日はどうや?〉
 メッセージアプリでそう送られてきた私は、奇跡だと思った。太宰のことをよく知らないはずの祖父が、たまたま桜桃忌を指定してきたのだ。もちろんその日に行けるなら行きたいに決まっている。1日2日、学校を休むことになるが、それくらい構わないと思った。

 さて、古聖人の獲麟を気取るわけでもないけれど、聖戦下の新津軽風土記も、作者のこの獲友の告白を以て、ひとまづペンをとどめて大過ないかと思はれる。まだまだ書きたい事が、あれこれとあつたのだが、津軽の生きてゐる雰囲気は、以上でだいたい語り尽したやうにも思はれる。私は虚飾を行はなかつた。読者をだましはしなかつた。さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行かう。絶望するな。では、失敬。

「津軽」

 私が「津軽」のそんな最後を読み終わる頃、飛行機は青森上空へとすでに入り、降下を始めていた。青々とした森の上を飛んでいた。大阪のような、雑多な街並みは一切見えない。大きな湖が見えた。「たぶん十和田湖ちゃうか」と祖母は話す。
 「さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行かう。絶望するな。では、失敬。」と生前の太宰は書いているが、もう死んでいるのだ。73年前の今くらいに。私が生まれたときから、彼は死んでいた。好きになっても、一生会える可能性のないこの世を生きている私にとって、その言葉は絶望そのものだと思った。

 飛行機はすっと着陸した。ほとんど衝撃を感じない着陸だった。頭上の荷物入れから荷物を引きずりだして、私たち3人は青森空港へと足を踏み入れた。
 青森空港は、もちろん関西国際空港よりも、伊丹空港よりも、また、以前友達と卒業旅行で訪れた仙台空港よりも小さかった。私が訪れたことのある国内の空港の中では、一番小さいと思う。
 祖父の先導で、ターミナルの隣にあるレンタカー店へと向かった。予約をしていたので、受付の方がすぐに手続きを進めてくださった。
 店員さんは、もちろん青森訛りだった。大学の教授にもひとり、青森訛りの先生がいるので馴染みがあるが、文節ごとに最後が上がるようなイントネーションだ。関西とは真逆だろう。「リンゴが」という文節だと、関西は「リ」もしくは「リンゴが」全体が高くなる二種類のアクセントのつけ方がある。しかし、青森訛りだと、「が」が一番高くなるような気がする。私がかじっただけの青森訛りなので、正確さはわからない。しかし、聞いている限りそういった印象が強い。
 私たちが使わせてもらう車に案内された。トヨタのカローラ系統の車だ。後で聞くところによると、祖母の車がカローラフィールダーなので、近しいセダンタイプの車種を用意してもらったらしい。
 八戸ナンバーのトヨタカローラ。それが、四日間私たちとともに旅をする仲間となった。

 まずは祖父が運転することとなった。空港の駐車場を出ると、空港と市街地を結ぶ有料道路がある。そこを過ぎると、果樹園などが広がるのどかな地域があらわれる。私たちはぽつんと建っていたファミリーマートに寄り、コーヒーを買って、祖父と私は運転を交代し、初心者マークを貼り付けて再出発した。道中、歩道を囲うフェンスがりんごの形をしているのを見つけた。
 りんごというのは、青森県を語るうえでやはり欠かせないのだ。

 青森に着いて初めに向かうのは五所川原市の斜陽館と決めていた。青森空港から、斜陽館のある五所川原市金木町までは、40分くらいだ。津軽自動車道という有料道路をずっと走って、五所川原北ICで降りる。青森の道路はとにかく景色が同じようなところばかりで、どうしても眠くなってしまう。高速道路も下道も、八割超が森や果樹園ばかりの景色だ。この眠気には祖父も私も四日間悩ませられた。調べたところによると、高速道路催眠現象(ハイウェイヒプノーシス)と呼ばれる現象でドライバーにはよくあることだそうだ。
 五所川原北ICを過ぎて、下道で車を走らせていると、少しずつ人里が見えてくる。ガソリンスタンドやコンビニなどがあり、車の数も増えてくる。小さな橋と小さな路地を走ると、突然大きな赤い屋根の斜陽館があらわれた。
 本やテレビでしか見たことがなかった景色を見ると、私はいつもこう思う。「ほんとにあるんだ」。写真や映像ではもちろん一部分しか映らないので、こんなに静かで、私の地元のような小さな集落にあることがなんだか不思議だった。この家の風格なら、京都市の御所の近くのような街中に、どんと存在していても不思議ではない。
 斜陽館の前にある広い駐車場には、バス専用の長くて白いラインの引かれた場所もあった。コロナ以前であれば、6月19日なんかは大勢の人が押し寄せていただろう。しかし、駐車場に停まっていたのは私たちの車と、他1、2台の乗用車のみだった。駐車場は津軽三味線会館と隣り合っていて、斜陽館と共同駐車場のようだった。三味線会館がひっきりなしに流している三味線の演奏だけが響いていた。
 斜陽館の受付に行くと、「三味線会館との共通券のほうがお得ですよ」と言われた。ではそれにします、と祖父が言うと、「三味線の演奏がもうすぐありますので、先に行かれたほうがよろしいですよ」と教えてくださった。私たちは共通券を買い、まずは三味線会館に行くことになった。
 コロナ禍のせいか、三味線会館もひっそりとしていた。展示を見るのもそこそこに、すぐに演奏の時間になった。私たちは小さなホールのような場所に通された。温泉旅館にたまにあるような、大衆演劇のステージの規模に似ていた。
 ホール内は暗く、静まり返っている。1人で来ている人もいたが、たいていは老夫婦だった。それでも、3、4組しかいなかった。私があたりを見回している間に、演奏が始まった。

 津軽三味線の演奏を生で聴くのは、たぶん初めてだと思う。まるで水の中に石を落としたときのような、含みのある音色だ。しかし、ギターやベースなど改良が重ねられ完成し切った楽器と違い、音程や音色にまだまだ不安定さが残る独特の楽器だと感じた。演奏は貫禄のある、何かの流派の家元である男性と、その弟子である若い女性の2人で行われた。
 演奏が終わったあと、3人で会館を出ると祖母が、
「私、なんやようわからんわ。全部おんなじ曲みたいやったなぁ」
と遠慮がちに言ったが、私もそれには同感だった。私は音楽をやっていたから、津軽三味線特有のピッチの揺れかたや荒々しい音色は気に入ったが、曲に関してはどうも全部同じように聞こえてしまう。それでも、遠い地の民族音楽を聴くことは、私にとっては貴重で面白い経験だった。


 駐車場を横切って、私たちはようやく斜陽館に入った。受付の人に共通券を見せると、まずは大きな土間に入ることとなる。
 太宰治の本名は津島修治で、この斜陽館は実家である津島家のものだった。太宰の父が建てたもので、広大な敷地と立派な建物が現存している。地元では名家だったんだろう。
 土間に入ると、右手には日本庭園に続く引き戸とガラス窓、左手には大きな畳の部屋が2つ。1部屋ずつが広すぎて、1人暮らしの大学生からすれば、自分の住んでいる家の総面積よりも広い「1つの部屋」を目の当たりにして、津島家の裕福さに打ちひしがれるしかなかった。
 まっすぐ向かっていくと、「思い出」という作品にも登場する囲炉裏がある。

十時頃まで床のなかで轉輾してから、私はめそめそ泣き出して起き上る。その時分になると、うちの人は皆寢てしまつてゐて、祖母だけが起きてゐるのだ。祖母は夜番の爺と、臺所の大きい圍爐裏を挾んで話をしてゐる。私はたんぜんを着たままその間にはひつて、むつつりしながら彼等の話を聞いてゐるのである。彼等はきまつて村の人々の噂話をしてゐた。 

「思い出」

 きっと、家族が集まる場所だったのだろう。ここでは眠れない日々の祖母との思い出が書かれている。古くて上等の木で造られた床はきれいに磨かれていて、つるつるとしていた。
 その囲炉裏の隣では、入り口を入ってすぐの大きな畳の部屋を見ることができる。そこには、大きな仏壇が堂々と構えている。祖父母の家の仏壇は一般的な家庭の大きさだが、その2倍は優に超えている。装飾には金色が多く使われ、荘厳な見た目となっている。手入れも大変そうだ、と思う。私の祖父母は法事の度に仏具のほこりを払ったり、金属製の道具を特殊な液体を使って磨いたりしていて、私もその作業を手伝うことがある。きっと使いの者がそういった作業をこなしていたのだろう。
 仏壇の左隣には、今度は少し雰囲気の違う、洋館にありそうな木製の階段が設置されている。その階段を上ると、2階の部屋の多くは洋室となっている。
 そのうちの一室は、太宰が実家に帰ったときに書いた作品にも登場する。

中学時代の暑中休暇には、金木の生家に帰つても、二階の洋室の長椅子に寝ころび、サイダーをがぶがぶラツパ飲みしながら、兄たちの蔵書を手当り次第に読み散らして暮し、どこへも旅行に出なかつたし、(後略)

「津軽」

 ここに書かれている部屋がそうだ。私は「津軽」を読んですぐあとだったので、洋室の案内板に書かれている「太宰が『津軽』でサイダーを飲んだと書いている部屋」というのを見て、すぐにあのシーンか、と思い至ったが、部屋を実際に見ると、「サイダーをがぶがぶラッパ飲みしてくつろげる部屋ではないな」というのが一番の感想だった。
 その部屋は見事な装飾で、絵本に出てくる王様の部屋のようなデザインだった。壁紙や調度品、何から何まで洋風できっちりまとめられていて、お金がかかっているというのがよくわかり、決して居心地のいい、気持ちを落ち着けられる部屋ではない。こんな部屋で、太宰はよくくつろいでサイダーを飲めたものだと私は驚いた。私なら、いくら実家とはいえ、床を汚したらどうしようだとか、いろいろ考えてしまいそうだ。
 2階の廊下からは、日本庭園が見渡せる。サツキの木がところどころに植えられ、6月下旬に差し掛かっているというのに、涼しいからか、まだ濃いピンク色の花をいっぱいに咲かせていた。マツの木も、窓から庭を眺めたときにちょうど綺麗に見える位置に植えられている。池には石橋が架かり、水彩画で描いたら綺麗だろうな、と思った。

 斜陽館を一通り見て、私たちは車に戻った。ずっと来たかった場所に来ることが、人生のこんなに早い段階で叶ったことになんだか不思議な気持ちになりつつも、遠すぎるがゆえに今度いつ来られるかわからないという寂しい気持ちもあった。
「今から竜飛岬に行くけど、もう行きたいところはないか? 後悔はないか?」
 祖父は、車を動かす前にそう言った。
「うーん……調べてみたら、近くの公園で毎年生誕祭やってるみたいやけど、今年の情報が全くない。2018年で最後なんよなあ。コロナでやってないんかなあ」
「行ってみようか?」
「でもやってなかったら、雨やのに大変やし。場所もいまいちわからへんしなあ」
 そんなことを言いながら、私と祖父はどうすべきかわからず、とりあえず竜飛岬に向かって走りながら、近くで昼食をとることにした。

 斜陽館から少し離れた場所で、道路沿いに蕎麦屋さんを見つけた。いかにも個人でやっていますという雰囲気のお店だ。中に入って、注文を済ませると、私は再びスマートフォンで情報を集めた。
 やはり、いくら調べても2018年あたりで広報活動が止まっている。しかし、場所は、どの年の情報を見ても「芦野(あしの)公園」と書かれているものばかりだった。どうやら芦野公園という場所に太宰の像があり、そこで催されるというのだ。
 時刻はもうお昼すぎで、行われていたとしてももう終わっている可能性が高い。その旨を祖父に伝えると、
「まあ食後に行ってみよう」
と言ってくれた。
 しかし、芦野公園という場所自体が広すぎて、いまいち像のある場所が分からない。当たり前だが、土地勘がないためどこに車を停めると一番近いのかもわからない。実は、祖父は若くから足を悪くしており、私としては、あまり長時間歩いてほしくはなかった。
 祖母もそれはよく理解しているため、会計のとき、店員さんにこう尋ねた。
「芦野公園、って、どうやって行くんですか? なんか太宰治の像があるって聞いたんですけど」
 店員さんはお釣りを数えながら、少し困ったような顔をした。
「公園はすぐそこですけど、像まではちょっと詳しくなくてわからないねえ」
 やはり青森訛りで、申し訳なさそうにそう言った。
 すると、レジ近くのカウンターに座っていた男性が、
「太宰治の像でしたら、近いです。ここの道まっすぐ行って、分岐を右ですよ」
と、突然、教えてくれた。彼も青森訛りだったが、少し薄い訛りだった。もしかすると、どこかから越してきた人なのかもしれない。そういう人のほうが観光名所に詳しいということは、よくあることだ。
「ありがとうございます!」
 私と祖母は彼に心からお礼を言った。
「駐車場もありますよ」
 土地勘のない我々に、丁寧にもう一度道順を教えてくれた。こんなコロナ禍の中旅行に来ている人間に対して、怒鳴り散らす人もいるとネットで多くの書き込みがある中で、こんなに親切な人がいるのかと嬉しくなった。明らかにイントネーションも違い、土地勘もなさそうな人に、今の世の中、こうして優しくできる人ばかりではないと思う。
 先に駐車場に行って車のエンジンをかけて待っていた祖父にその道順を伝えると、3人を乗せた車は出発した。

 道を教えてくれた男性の言う通り、芦野公園の駐車場はすぐそこにあった。車で5分とかからなかった。こんな近くで、私たちは行くのを迷っていたのか。やはりあの男性が道を教えてくれなければ、行くことはなかったかもしれない。私は改めて、旅人に優しい、名前も知らない人に感謝をした。
 高校生の頃、京都駅から近い高校に通っていたことで、行き帰りの道でよく外国人や他府県の人に道案内をすることが多かった。そのときのツキが回ってきたのかもしれない。
 悪天候だからか、駐車場は空いていた。そのことからも、もうイベントはやっていないか、やっていたとしても終わっている可能性が高かった。祖父はなるべく公園に入っていく道に近い場所に車を停めた。
 外は雨が降りだしそうな曇り空だった。木々に挟まれた道を、私たちは3人で歩いて行った。「太宰治の像」と書かれた案内プレートの通りに歩いていくと、すぐに像にたどり着いた。像の隣には文学碑もあり、像と碑の真ん中に吊り橋が架かっていた。
 その周辺には花を持った2人の女性と、数人の男性が何やら作業をしていた。道端には、「五所川原市」と丸ゴシック体で書かれた軽ワゴン車が2台ほど停まっていた。明らかにイベントの後だということが、すぐにわかった。
 祖父母は、私と太宰の像を写真に納めてくれた。

「ちょっと、すみません」
 祖父は、唐突に、軽ワゴン車に乗って去ろうとしかけていた人に声をかけた。
 私はぎょっとした。唐突すぎたこともあるし、知らない人にいきなり声をかける勇気を私は持ち合わせていないからだ。
「はい? あっ、」
 その人は親切そうな若い男性だった。軽ワゴンの窓を開けて応えてくれたが、何かに気づいたように話すのをやめ、助手席にあった荷物を漁り、急いでマスクをつけた。祖父のイントネーションで他府県の人間だと気づいたのか、それともそうでなくてもマスクをつけなければいけないと感じたのか。どちらにせよその一挙一動で、彼が気の利く優しい人だというのはすぐに分かった。
「市役所の人ですか?」
「はい、そうです」
 祖父の問いに、その人ははっきりと答えたが、何を訊いてくるのだろう、という疑問はありありと感じられた。そりゃそうだ、と思う。私だったら萎縮してしまいそうだ。
「そうですか。私も昔、市役所でね」
 祖父は少し嬉しそうに話した。
「ああ、そうですかぁ」
 少し意外そうに、市職員の方がリアクションをした。
「それは昔の話やろ、場所も違うし」
 話が脱線しそうな祖父を慌てて私が止めに入った。祖父は滋賀県某市で十数年前まで市役所職員をしていたから、五所川原市職員の彼を前にして親近感を感じたのだろう。祖父の話し方だと、この目の前の彼が、「この人は五所川原市の職員だったんだ」と勘違いしかねない。
 制止された祖父は、話を戻した。
「ここはなにか、イベントでもあったんですか」
 あたりさわりのない尋ね方をした。
「ああ、太宰治の生誕祭をやっておりまして。もう終わってしまったんですけど」
「生誕祭?」
「はい。今日は太宰治の命日なんですけど、誕生日でもあって」
 正確には命日ではない。遺体が見つかった日に過ぎない。それは彼も分かっているだろうが、初対面の人に説明するのはなかなか話が長くなるので省略したのだろうと私は推測した。
「それはもう、市内の人だけやねんね」
「そうなんです。大体的にやるのは3年前で終わってるんです。それからは市内の人だけで」
「こんな時代やしね」
「それもあって。あっ」
 彼は、また助手席の荷物をごそごそとして、1枚のビラを渡してくれた。
「これは今日のチラシなんですけど、こういうイベントだったんです。来年もやるかどうかはわからないんですが、こういうイベントでしたよ、とだけ。来年もやるかは保障できません」
 彼のくれたチラシを見てみると、いかにも市内限定のイベントらしく、手作り感のあるチラシと印刷だった。そこには金木町の小学生が朗読をするなどのイベント内容が載っていた。彼は念を押すように、「来年もやるかどうかはわからない」と2回言った。
「ありがとうございます。丁寧に」
 祖父がお礼を言ったので、私も続いて頭を下げてお礼を言った。
「いえいえ。それでは」
 そう言って、五所川原市の銀色の軽ワゴンは芦野公園を走り去っていった。

「残念やったなあ。もう少し早く来てたらよかったなあ」
 祖母はそう言ったが、私はあまり後悔していなかった。
「早く来てても、こんな時期やし、あんまり参加できひんかったと思うで」
 町の人のためにも、こういうのは外野から見ているくらいがちょうどいいだろうと考えたのだ。
「そうやなあ。そうかもしれんなあ」
 祖母も納得して、私たちも公園を後にした。


 そこからは、ただひたすら津軽半島の先っちょ、竜飛岬に向かって車を走らせた。金木町から竜飛岬までは、だいたい1時間15分くらい。私も祖父母も、石川さゆりの「津軽海峡・冬景色」という曲が大好きだ。祖父母はもともと旅行が好きなので、一緒に行くと必ず旅館でカラオケをする。そのときの定番曲だったのだ。そのため、青森旅行が決まった時から、竜飛岬に行くことは必然的に決まっていた。
 芦野公園を出てからは、ただひたすらに山と森だった。今、グーグルマップでルートを見直しても、道中はひたすら緑だ。街らしき場所を通らない。
 特に代わり映えしない景色の中、時々現れる看板だけが面白かった。中泊(なかどまり)や外ヶ浜(そとがはま)など、「津軽」で見たことのある地名ばかりが並んでいる。そして、その一番最後には「龍飛」と書いてあるのだ。
「難しい方の龍っていう漢字と、簡単な竜っていう漢字はどう違うんや? 看板には難しい方の龍と書いてあるけど、歌のほうは簡単な竜やろ」
 祖父は運転しながらそう言った。たしかに、と私も思った。
 インターネットで調べてみると、特に「こう違う」という記述は見当たらない。現地周辺に住んでいる人は「竜飛岬」と言わずに「龍飛崎(たっぴざき)」「龍飛」と言うという面白い記事を発見したが、漢字については特に見当たらない。
 そこで、「龍飛 竜飛 違い」で検索してみた。
「なんか、どっちでも良いらしい」
 グーグルをフル活用した結果はそれだった。特に過去と現在での違いというわけでもないらしい。旅館や看板、書類などによって違い、結局は「どちらの字で公的機関に登録しているか」という問題だということがわかった。
「はぁー、そういうことか」
 市役所で働いていた祖父は腑に落ちたようだった。
「この看板に書いてある地名自体は難しい方の『龍』で登録してあるんやろ。でも、旅館とかは、好きな方で登録できる」
「そうらしい」
 要はどっちでも正しいということだ。

 竜飛に近づくにつれて、どんどん道が山道になっていって、登っているのがわかった。天気が悪くて、ずっと強風が吹いていた。くねくねとした山道を登っていく途中、祖父は、
「崖の上のポニョみたいや」
と言った。木々もどんどん少なくなって、道のわきには草だけが残った。本当にポニョと宗介とリサの住んでいる家がある崖の上のみたいだ。こんな気候の場所では、木々も育たないのかもしれない。
 坂道を登っていくにつれて、明らかに人間の住むところではない、殺伐とした雰囲気を醸し出している場所になっていくのがわかった。それと同時に、どんどん気圧が低くなり、偏頭痛に似た症状が出始めた。頭を外側から引っ張られているような感覚になり、頭がぼんやりとする。かなり標高が高いのだろう。天気も悪いため、体調は徐々に悪くなっていった。


 カローラが火を吹くのではないかと思うほど坂道を登り詰めると、唐突に「竜飛」と達筆で書かれた看板を掲げる旅館がぽつんとあらわれた。大海原をバックに、窓が割れそうなほどの強風を受けとめながら、建っていた。
 こんなところで旅館を経営する人がいるんだ、と私はちょっと意外に思った。確かにここに泊まりたい人は多いだろうが、気候や天候を考えると、とても採算が取れるとは思えない。それでも、祖父によると有名な旅館だそうだから、うまくいっているのだろう。
 その前には観光客用の大きな駐車場があった。閑散としていて、この世の終わりみたいだった。世界から人が消えてしまって、私たちだけになったみたいな気持ちだった。そこに車を停めて、祖父母についていくと、海を見渡せる場所に「津軽海峡・冬景色」の歌碑があった。
「うわあ、すごい景色」
 祖母も感動して、歌碑を見ながら口ずさみ始めた。こうやって文字にすると優雅な情景に見えるかもしれないが、実際は台風レベルの強風が止むことなく吹き続けていて、気温も20度を切っているのだ。セットした髪は風の思うままだ。これこそ旅だな、と思った。
 竜飛岬の歌碑まで行くことは、事前に友達に話していたのだが、その友達が「歌碑の前に赤い爆破ボタンみたいなのがあって、それを押すと爆音で曲が流れるらしい」という情報をくれていた。
 実際に赤くて丸いボタンが歌碑の前にあるのを発見した私は、黒々とした海を背景にして「津軽海峡・冬景色」を口ずさむ祖母を横目に、思い切りボタンをグーで押した。
 すると、予想していたよりも大きな、周囲100メートル以内にいる人には必ず聞こえるくらいの音量で、あの有名なイントロが流れ始めた。
 祖母は飛び上がって、私がボタンを押したことが分かると大笑いし始めた。私も、思ったより大きな音量だったので、笑いが止まらなくなってしまった。
 風の音が大きすぎるために大音量にしたのか、ただ単に何も考えずに作ってこの音量なのかわからないが、とにかく音が大きい。野外ライブかと思うほどだ。
 「上野発の夜行列車降りたときから 青森駅は雪の中」で始まる有名な1番だが、歌碑のスピーカーからは、「ごらんあれが竜飛岬北の外れと 見知らぬ人が指をさす」の2番から始まる。曲を知っている人は違和感があるが、1番は主に東京の上野から青森駅までの歌詞なので、やはり歌碑からは竜飛岬を指さす見知らぬ船客の歌詞である2番が流れるのが妥当だ。
 強風の中、祖父が海の向こう側を指さし、
「晴れてたら、北海道が見えるんや」
と教えてくれた。今日は曇り空で、今にも雨が降り出しそうなくらいだ。海の向こう側はかすんでいて、ただ灰色の景色が広がっていた。綺麗に晴天になって、北の大地が見える日に来てみたかったが、こんな場所まで来れるのは人生で2回もあるのだろうか、と少し不安に思った。
 歌碑のある場所からその先には行くことはできないが、もう少しだけ高台に上ることはできる。そこには土産物屋や昼食を取れそうな小屋が並んでいるのだが、どれ1つとして営業していなかった。もうずっとやっていないのか、定休日だったのかはわからない。でも、店があってやっていないというその寂しさが、いっそう竜飛の殺伐とした雰囲気を大きくしていた。
 高台を登り詰めたところには、木製の棒が刺さっていて、こんなことが書いてあった。
「北部七一部隊第二中隊第三砲座跡」
 ここはどうやら、日本軍のなにかの跡地らしいということがわかった。「津軽」でも、太宰は竜飛へ向かう途中の部分で、こう書いている。

その十三湖の北に権現崎が見える。しかし、この辺から、国防上重要の地域にはひる。
(中略)
十三湖を過ぎると、まもなく日本海の海岸に出る。この辺からそろそろ国防上たいせつな箇所になるので、れいに依つて以後は、こまかい描写を避けよう。

「津軽」


 戦時中の作家にとっては、詳しく書くことのできない部分だったらしい。その時代背景は今と違うが、検閲が厳しかったことは想像に難くない。

 私たちは竜飛岬を後にして、下り始めることにした。
 竜飛から下る道の先には、本当に津軽半島の端の端、外ヶ浜町がある。海岸沿いは曇りだったこともあって、静かで、この世の果てのようだった。やはり、高度が下がるにつれて体調は回復していった。竜飛岬が気圧が低かったのは正しかったようだ。
 たまたま見つけたのだが、そこには太宰の文学碑がまた立っていた。祖母はそれを見て、
「どこへ行っても太宰、太宰やなあ。街を挙げてやってるんやな」
 本当にその通りだと思った。この津軽という半島全体が、太宰という、この地にいた頃はきっとろくでもない噂ばかりだったであろう彼のことを大切にし、いくつもの碑や史跡を守り続けている。彼の文学の力は、地元にいた、落ちぶれていた頃の評価をすべてさかさまにしてしまうくらいの力があったのだ。
 碑のほど近くに、小さな木造の建物があった。そこには、「龍飛館」とあり、観光案内所のような役割らしい説明が書いてあった。
 祖父母は、太宰の資料が何かあるかもしれないから行ってみよう、と行くことを勧めてくれた。車をそこまで持っていくから、先に行っててほしいという祖父を残し、私と祖母はその建物に入ることにした。

 中はひっそりとしているが、入り口のすぐ横に事務所らしき部屋があり、2人の女性が座っていた。中は無料で自由に見ていいと書かれていたので、靴を脱ぎ、上がった。
 どうやら、この建物は昔旅館だったらしい。いたるところにそういう情報が書いてあった。私はそこで初めて気づいた。これは、「津軽」に登場するあの旅館だ。太宰は津軽旅行で、竜飛岬を訪れ、最果ての地のような場所にある旅館に泊まったというようなことが書いてあった。おそらくその旅館だ。
 天気が悪く、館内の照明もあまり明るくないため、ぼんやりと薄暗かったが、私と祖母は入り口を入って右の廊下へと進んだ。そこには2部屋の和室しかなかったが、一番奥の部屋には、太宰が泊まった部屋だということが書かれていた。座布団が2枚並べられ、太宰の写真と、一緒に泊まっていたらしい人の写真があり、その前には御膳のような食器が置かれていた。

 もう少しだ。私たちは腰を曲げて烈風に抗し、小走りに走るやうにして竜飛に向つて突進した。路がいよいよ狭くなつたと思つてゐるうちに、不意に、鶏小舎に頭を突込んだ。一瞬、私は何が何やら、わけがわからなかつた。
「竜飛だ。」とN君が、変つた調子で言つた。
「ここが?」落ちついて見廻すと、鶏小舎と感じたのが、すなはち竜飛の部落なのである。兇暴の風雨に対して、小さい家々が、ひしとひとかたまりになつて互ひに庇護し合つて立つてゐるのである。ここは、本州の極地である。この部落を過ぎて路は無い。あとは海にころげ落ちるばかりだ。路が全く絶えてゐるのである。ここは、本州の袋小路だ。読者も銘肌せよ。諸君が北に向つて歩いてゐる時、その路をどこまでも、さかのぼり、さかのぼり行けば、必ずこの外ヶ浜街道に到り、路がいよいよ狭くなり、さらにさかのぼれば、すぽりとこの鶏小舎に似た不思議な世界に落ち込み、そこに於いて諸君の路は全く尽きるのである。
(中略)
 露路をとほつて私たちは旅館に着いた。お婆さんが出て来て、私たちを部屋に案内した。この旅館の部屋もまた、おや、と眼をみはるほど小綺麗で、さうして普請も決して薄つぺらでない。まづ、どてらに着換へて、私たちは小さい囲炉裏を挟んであぐらをかいて坐り、やつと、どうやら、人心地を取かへした。

「津軽」


 太宰は竜飛をこのように語っている。ここに出てくる旅館がここだったのだ。もうこの旅館より先にはどこにも行けない。
 館内は展示が多いわけではないので、すぐに回ることができてしまった。祖父も追いついて一緒に展示を見て、私たちが帰ろうと旧旅館を出ると、途端に雨が降り出した。
 思えば、一日ずっと今にも雨が降り出しそうな曇り空が続いていた。それなのにずっと降らずに持ちこたえて、今日はもうこれ以上行くところがない、というところでタイミングよく雨が降り出したのだ。もしかすると、太宰先生が気を遣ってくださったのかもしれない。
 津軽半島ををずっと海岸沿いに走って、私たちは雨の中、2つの半島の真ん中あたりにある青森市の旅館へと急いだ。


2日目

 津軽半島を一周した昨日とは違い、次は津軽半島の右側に張り出している下北半島を一周するというのがこの日の行程だった。祖父は旅程を組むのが好きで、毎回旅行に行くたびにワードで作成した旅程表をくれる。長い間市役所に勤め、現在でもデスクに向き合う仕事をしているということもあって、私よりもエクセルやワードを使うのが上手だ。その旅程表にはしっかりと、1日目は津軽半島、2日目は下北半島、3日目にはゴルフ、最終日には奥入瀬渓流と十和田湖に行くことが書かれていた。
 青森県はクワガタの角のような形をしているが、左が津軽半島、右が下北半島となっている。祖父がまず「行きたい」と話したのは、その下北半島の中でも北のほうにある「恐山(おそれざん)」という場所だった。
 私はその名前を何度か聞いたことがあった。SNSで「ダ・ダ・恐山」という名前のインフルエンサーがおり、変な名前だなあ、と思っていたのだ。「恐山」という場所が存在し、なおかつパワースポットであることは祖父に教わって初めて知って驚いた。
 祖父の運転する車の中、スマートフォンで検索してみると、「行ってはいけない」「イタコ」「地獄」「注意」など、圧倒される文字が散見される。いくつか記事を読めば「軽率に遊び心で行ってはいけない」「死者の魂が乗り移りその言葉を伝えるイタコが存在する」「無礼な行為をして帰った若者が帰り路に事故に遭った」など、恐ろしいエピソードが次々に出てくる。
「なあ、恐山って結構やばいとこなんちゃうん? 気軽な気持ちで行ってはいけないって書いてあるで」
 私は不安になり、祖父母にそう話しかけた。
「そんなん、大丈夫やろ」
 祖父は私の話を聞いて「何を言っているんだ」という風に笑った。祖父母はどちらもそういう話を信じないタイプだ。祖母に至っては占いは信じるのに、神や仏を信じない。私からすると、信仰対象がよくわからない人だ。
私はといえば、人智を超えた超常現象や死後の世界はあると考えるタイプなのだ。その理由は、父の知り合いである「霊媒師」を名乗る人物にあった。

 「Kさん」というその人物は、もともと私とは関わりがない人物だった。ただ父の知り合いだった。しかし父は何度か私にその人の話をした。その中のエピソードの1つが、占いの類を信じない私の考えを覆すものだったのだ。それはこんなエピソードだ。

 父の会社の部下である「Mさん」という人物がいる。彼は会社のことやプライベートのことで厄介ごとを抱え込み、うつ病を発症した。その際、父がMさんに「困ったらこの人に相談するといい」という風にKさんを紹介したことがきっかけだった。
 MさんはKさんが霊媒師を名乗ることに対し、半信半疑で相談に行ったという。そこで「あなたの大切な人の名前と生年月日を書いてください」と言われた。Kさんはその人のフルネームと生年月日で、その人の「現状」のみを見ることができる。未来のことはわからない。そう話していたそうだ。
 Mさんはそのとき、渡された用紙に父の名前と生年月日を書いた。するとKさんは怪訝な顔をして、「この人の家族とその生年月日も分かりますか?」と訊ねてきたのだという。Mさんはよくわからず、私の父に訊ねて、母と私と妹の名前、生年月日を紙に書いた。その途端、Kさんは私の名前を指さし、
「この子、今とても大変なことになってる。どうにかしてあげたほうがいい」
 そう言ったのだという。
 それがそう、私が鬱で自殺を考えていたときのことだった。
 何も知らないMさんはその相談が終わったあと、父に、
「のかちゃん、なんかあったんですか?」
と訊いた。
「なんで知ってんねん?」
 父は自分の娘がひどい状態にあることを会社の人に話してはいなかった。もちろん、Kさんにも話していなかったのだという。そこで初めて、Kさんが何も知らないはずなのに私の精神状態を危惧していたことが発覚した。父もMさんも驚きを隠せなかったという。
 私はそれからしばらくしてKさんと対面してお話しすることになるのだが、私もMさんと父の話を聞いたときは、驚きを隠せなかった。それまでは霊や神や前世や仏など、そういった類のものは全部信じていなかったからだ。そのKさんの1件がきっかけで、私は超常現象や霊的なものを信じるようになった。私のことをなんにも知らないのに、私のこの状況を理解している人がいる。不思議なことが世の中にはあるんだ、と悟った。

 話を戻すが、そういった経緯があって私は霊的なものや神や仏を信じるようになった。そのため、恐山に軽率な気持ちで観光に行くことにあまり気乗りしなかったのだ。
 しかし祖父母が全く気にしていないので、私はついていくほかない。そのうえ、インターネットには悪い噂ばかりではなく、パワースポットであるとも書かれていた。なるべく無礼な行動のないようにお参りさせてもらおう。そう心に決めた。
 祖父の運転するトヨタカローラは、どんどん鬱蒼とした山を登り、森の中を進んでいった。平地から30分くらい上っただろうか。そんな場所で、3人ともある異変に気付いた。
「なんか臭いな」
 祖母が真っ先に言う。祖母は気になったことはすぐ口にするタイプだ。いつも率直な感想をいちばんに言う。
「ほんまや、硫黄のにおい」
 私も言う。そのにおいには覚えがあった。温泉のにおい。硫黄泉のにおいだ。
「ああ、ほんまやな」
 少しひらけた場所があったので車を停めて、祖父は窓を開ける。そこには、硫黄泉が噴出したような、白とエメラルドの入り混じったような沼地があった。
「あんまり吸い込むと良くないんちゃう」
 私は祖父に、窓を閉めるようそう促した。祖父も納得したように窓を閉め、再び恐山の入り口へと車を発進させた。
 そこからほどなくして、突然大きな湖と厳かな門があらわれた。「恐山は死後の世界」とネットには書かれていたが、昔の人がそんな風に言いたくなる気持ちがよくわかった。この世の景色とは思えないのだ。ただひたすらに砂利道で、地獄の門があればこんな感じなんだろうなあ、と思えるほどの大きな門が入り口に佇んでいる。その向こうにはそれもまた大きなお寺があった。本堂の大きさとしては、外から見た感じ、京都の東本願寺の3分の2くらいだろうか。それでも十分大きい。学校の体育館くらいはありそうだ。
 「日本三大霊場」と書かれた記念プレートと撮影スポットがあった。「来場記念」と書かれていて写真を撮るためのひな壇があったが、こうして観光でこんなところまでやってくる団体客などいるのだろうか。記念写真のひな壇には祝い事や楽しい場所に行った思い出が紐づいているため、どうしてもこんな、うるさいほどに静けさが横たわるあの世のような場所で、みんなで楽しく集合写真を撮る観光客がイメージできなかった。
 お寺の前庭のような場所はきれいに掃除され、本堂までの道が長くまっすぐに続いていた。私たちは祖父についていき、本堂の周りを散策することにした。
 本堂の周辺は前庭のように整理されておらず、自然のままになっている場所が多かった。ハイキングコースのように小径が続き、あちらこちらで石が詰まれ、そこに風車が刺さっている。ときおり風が柔らかく吹いて、かたかたと音を立てて風車がまわった。その様子を見て祖母が、
「これは子供が死んで、供養しとかはるんやな」
と言った。へえ、そうなのか、と私は初めて知った。
「なんで風車を刺すんやろ」
「さあ……? 子供やしちゃうか」
 祖母はそこまで知らないようだった。どうでも良さそうにそう言った。祖父母の2人は全く信仰心がないので、あちらこちらで写真を撮り始める。ホラー映画だったら真っ先に死ぬタイプの2人だ。私は怖くて、こんな人のお墓のような場所で写真を撮ろうという気持ちになれなかった。
 そのうち祖父は風車の刺さった風景を背に、記念写真を撮ろうと言い始めた。
「いやや。こんなん、お墓で写真撮ってるのと変わらへんで。絶対やめといたほうがいい」
 私はすぐさま反対した。
「ええ? そんなん大丈夫やろ」
 祖母は怖がる私に笑いながらそう言ったが、祖父はスマホのカメラを構えていた手を下げて、
「そうやな。のかの言う通りや。やめとこう」
 珍しく引き下がった。祖父は昔から時折、不思議な体験をしたことがあるそうで、「この世には科学で説明できない不思議なこともある」と言うこともあった。完全に神や霊の類を信じていないわけではなく、「触らぬ神に祟りなし」といった感じだった。祖母は神道や仏教に対する信仰心は一切ないが、占いは信じる。真逆の2人だ。
 写真を撮るのはやめて、祖父は「温泉に入ってくる」と言い始めた。恐山の門の内側には、小さな小屋がいくつか建っており、その中は硫黄泉が湧き出ている温泉になっていた。看板を見てみると、誰でも入れるということが書いてあった。男湯と女湯があった。祖母は鞄の中からフェイスタオルを取り出し、祖父に渡した。
「私はいいわ」
 祖母は言った。
「私も」
 私と祖母は、祖父が温泉から上がるのを待つことにした。少し温泉を覗いたが、きつい硫黄泉の香りが漂っていた。中は灯りも点いておらず、薄暗かったので、私はなんだか気が進まなかったのだ。
 祖母は「めんどくさい」と言って入らなかった。まったく祖父母は対照的な2人だ。

 しばらく周囲を散策していると、15分ほどして祖父が温泉から上がってきた。祖父は使ったタオルを無言で祖母に渡し、祖母がそれを無言で受け取った。長年2人の間で行われてきた暗黙の会話だ。
「どうやった?」
 祖母はそう訊ねた。
「あったかかったわ」
 祖父は当たり前のことを口にした。血色もよくなり、気分が良さそうだった。
 恐山を堪能した私たちは、自然と駐車場のほうに向かって歩き始めた。

 レンタカーで恐山を後にしつつ、私はネットで見た記事のことを考えていた。恐山でタブーを犯した若者が、帰り道で事故に遭ったという内容の記事だった。私は一応、祟られないように細心の注意を払っていた。だから何も起こりませんように。そう願いながら、山を下る唯一の道を、私たちを乗せた車は下っていった。

 祖父は、恐山の次に行く場所も決めていた。それは下北半島の先っちょにある、仏ヶ浦という場所だ。石灰を多く含む巨大な岩石が佇み、何千年という時間をかけて風化と侵食を繰り返してできた独特な形をしている。遊覧船で車が出入りできないような入り組んだ海岸まで行き、ようやく見ることができるという。あの世のような名勝だとネットには書かれていた。
 恐山を下ってしばらく住宅街のような場所を走っていたが、ほどなくして海岸沿いに出た。
「このままじゃちょっと、遊覧船の時間に間に合わへんなあ」
 家で印刷して持ってきた遊覧船の時刻表とカーナビの現在時刻を見合わせながら、祖父は助手席でそう言った。
 途中から初心者である私の運転だったためスピードが遅く、遊覧船の時間が迫ってきていた。予約しているわけではないのだが、その時刻を逃すと、2時間後くらいになってしまう。下北半島一周を計画している我々にとって、2時間もロスするのは避けたいところだった。今日のうちに宿に帰れなくなってしまう。
「運転、変わるわ」
 海岸沿いのゆるやかなカーブが続く道で、祖父はそう言った。路肩に車を停めるよう指示し、私はそれに従った。
 運転が祖父に変わると、カーナビの到着予定時刻がどんどん早くなり始めた。法定速度で走っていた私の運転では、遊覧船の出発時刻から10分くらい遅れての到着だったのに、祖父の運転に変わって10数キロ走るだけで、遊覧船の出発時刻にぎりぎり間に合うのではないか、という時間に早まっていった。
 祖父は昔からよく飛ばす。祖母も、「じいちゃんはな、昔は『飛ばしの○○』って言われてたんやで」と、私に話すことがあった。○○というのは祖父母の苗字だ。彼らの若い頃は女性で免許を持っている人がまだまだ少なく、祖父がデートの時に黄色いスポーツカーで飛ばしてきたという話をよく聞かされた。女子校の高校卒で社会に出た祖母は、右も左もわからなかったのでこんな人と結婚してしまった、とよく愚痴をこぼしていた。
 そんな祖父の運転によって、遊覧船の出発時間まであと15分、という余裕をもって到着することができた。駐車場に車を停め、お土産屋やチケット販売所が一緒になったビジターセンターのような場所でチケットを買った。
 そこで私たちはようやく、昼ご飯を食べていないことに気が付いた。遊覧船の出発時間が1時なので、お昼の時間は過ぎてしまっている。遊覧船の出発時間に間に合うかどうかが心配で、3人ともそのことに気づかずにいた。
 ビジターセンターの中に、地元のお米を使ったおにぎり屋さんがあった。祖父はお昼をそれにしよう、と言った。しかし、遊覧船の時間まであと10分しかない。でも、ここでおにぎりを買わなかったら、空腹のまま仏ヶ浦を周ることになる。
 苦渋の判断で、私たちはハラハラしながらおにぎりを買うことにした。店員さんに遊覧船に1時に乗るから急いでいることを伝えると、「それは大変だ」と一緒に急いでくれた。どこまでも観光客にあたたかい風土だ。
 なんとか時間に間に合わせることができ、私たちは船に乗り込んだ。船は大半が外の風にさらされるデッキで、長いベンチがいくつか固定されていた。それほど長時間乗るための船ではないので、船室よりもデッキが大きく作られているのだろう。しぶきを上げながら、 船は仏ヶ浦へと向かっていった。今まで見たこともないようなエメラルドグリーンの海が広がっていた。
 しばらく船は崖に沿って走った。すると、左前方にひらけた場所があらわれた。船着き場もあり、どうやらここで降りられるらしい。
「これから下船して観光していただけますが、1時45分までには戻ってください。ご協力よろしくお願いします」
 船内アナウンスが流れて、船着き場で私たちは降りた。桟橋が岸から伸びていて、そこにエメラルドの波が打ち付けていた。船に乗っていた観光ガイドによると、このあたりの岩石自体が成分の都合により緑色をしていて、無色透明な海水にそれが反射することで海水自体がエメラルド色に見えるらしい。
 見上げるほどの大きな切り立った岩石が周囲に広がっていた。地面が平坦になっているところもあれば、ところどころ起伏があって足場の悪いところもあった。あたりはしんとしていて、少し話せば、声が岩々に吸い込まれていくようだった。
 祖父は足が悪いのでゆっくりと歩く。私は歩くのがもともと早いので、ときたま後ろを振り返りながら歩いた。順路は特にないが、同じ船に乗っていた人たちがぞろぞろと向かう方向に、なんとなくついて行った。
 岩々は白に近い灰色をしていた。晴れた日にライトアップすれば、ミュージックビデオの撮影なんかに使えそうだ、と感じた。ドラムセットの音が岩々に吸い込まれていくところを想像した。絶対良いに決まってる。
 同じ船に乗っていた人たちの列を追いかけると、先頭にはガイドさんがいて、みんなその後を付いて行っているのだと分かった。ガイドさんはたまに後ろの方の列に向かって、
「自由に散策していただいて構いませんからね。僕の解説を聞きたい人は付いてきていただいてかまいませんが、付いてこないといけないというわけではありません」
と声をかけ、気を遣ってくださっていた。
 私たちはそのガイドさんになんとなく付いて行き、解説を聞いた。
「ここの岩には、ところどころ名前が付けられています。天龍岩、如来の首など、仏教に由来する名前ばかりになっています」
 霊場恐山と合わせて地元の人の信仰をあつめていることや、陸からでは仏ヶ浦に続く車道はなく、起伏の激しい歩道を15分ほど歩かなければ到達できないことなど、ガイドさんからは詳しい話がたくさん聞けた。
 あらためて、自分が日本のことを何も知らなかったことを思い知らされた。自分が生活している近畿圏のことしか知らないのに、日本のことをたくさん知ったような気になっていた。ところ違えば信仰も違う。食も言葉も違う。本州のこんな端の地で、こうして信仰をあつめ、ひっそりと佇んでいる岩石があるなんて、知ろうとしなければ知る機会も、こうして来る機会もなかっただろう。この年齢でこんな場所を訪れる機会に恵まれた自分を幸運だと思った。
 たっぷり30分ほど仏ヶ浦を自由散策し、私たちはまた船へと戻った。

 駐車場に戻り、再度出発する。祖父の決めた次の行き先は、下北半島の先っちょ、本州の最北端にあたる「大間町」だった。マグロ漁で有名な街だそうだ。
 遊覧船の乗り場から大間町までは30分ほどで到達した。
 到着した頃から天気は曇り空で、大間町には竜飛と同じように強い風が吹きすさんでいた。海のない地元でこの天気だとしたら、台風が来るかと思うほどの悪天候だ。青森県の海岸沿いの気候はなかなか厳しい。
 観光客用の駐車場が無料で使えるようだったので、適当に車を停めた。しかし、平日の夕方だということもあってほとんど他の観光客はいなかった。竜飛と同じで、電車ではなかなか来ることが難しいため、車以外で来ている観光客もそれほど見当たらなかった。
 北海道方面につづく海原を背に、本州の最北端であることを示す石碑が建っていた。背が高く、2メートル以上はあった。
 私たちの他には、家族連れが1組と、年齢不詳のカップルが1組。あまり賑わっているふうではない。
 祖父がその石碑の前で写真を撮ろうと言った。祖父は昔から、こういう写真を撮りためては、帰宅してからアルバムにしてまとめている。祖父母宅には、私の母の小さな頃の写真も大事に取ってあった。でも大体、祖父は写真を撮る側にまわるので、みんなの写真を撮ってばかりだ。それに気づいたときから、私は祖父母2人の写真を撮って残すようにしていた。
「2人で撮りや。撮ったるで」
 私は祖父のスマートフォンを借り、本州最北端の石碑の前に2人を並んで立たせた。こういうとき、祖父はなんだか嬉しそうにする。本当に祖母のことが好きなんだろうな、と思う。
 曇天と荒れた灰色の海を背に2人の写真を撮り終えると、祖父にスマートフォンを返した。その写真を確認すると、「ありがとう」と祖父は言った。

 近くに祖父が下調べしたマグロ丼が食べられる店があるとのことなので、車をほんの数分だけ走らせてそのお店に向かった。駐車場は広く取られていたがお店の建物自体はそれほど大きくなく、普通の民家より少し小さいくらいだった。平屋で外壁はグレーのタイルが貼られ、黒くてところどころガラスがはめ込まれた引き戸が玄関になっていた。
 駐車場には私たち以外の車が停まっていなかった。もう時刻は四時過ぎ、とっくにお昼時は過ぎ、夕食時には早すぎる時間だ。
「これやってるん?」
 お店が営業しているのか不安になるほど、お店自体も周辺も閑散としていた。
「やってるやろ。調べたで」
 祖父はあまりそのあたりを心配するたちではない。旅行の際はきっちり行程を考える人なので、たいてい休業日はしっかりと調べている。
 3人で車を降りて引き戸をあけ、入店すると、店員さんが厨房からひょっこり顔を出した。
「あら、いらっしゃい」
 こんな時間に人が来ると思っていなかったのだろう。意外そうな顔で私たちを見て、席に案内してくれた。
 店内には大漁旗や大きなマグロの写真、漁に使う道具などが飾られていた。もともとのインテリアのテイストが普通の定食屋風だったので、個人経営の雰囲気がよく出ていて私は好きだな、と思った。
 お冷を持ってきた店員さんが注文を訊いてきたので、全員祖父と同じ、一番スタンダードなマグロ丼にした。
 すぐに真っ赤な切り身が花弁のように乗せられたどんぶりがテーブルにやってきた。私たちはずっとお昼ご飯を食べ損ねていたので空腹で、ほどなくして完食した。鉄分が多く、脂の乗ったマグロ丼は醤油とよく合った。
 お店を出ると、私たちは宿へと向かった。

3日目


 青森旅行において一番印象的だったのは3日目だ。
 早朝から、祖父母にとってはメインイベントであるゴルフをしに行くことに決まっていた。前日の晩、私の行動予定について3人で話し合った。
「明日ゴルフやけど、どうする? ついてくるか? それとも、1人で車を使ってどっか行ってるかや」
 祖母がそう言った。私はゴルフの予定が3日目にあると出発前から聞いていたが、そのときから、3日目は一人で行動しようと決めていた。
「1でもう1回五所川原に行ってくる。行き残したところがあるから」
「わかった。じゃあ朝ゴルフ場まで送って、帰り迎えに来てな」
 話がまとまり、3日目は朝から私1人で行動することが決まった。

 夏泊(なつどまり)いう小さな半島にある丘の上のゴルフ場に祖父母を送り届け、3時までにまた迎えに来るように、と言われた。私は1人でカローラを飛ばして丘を下り、高速道路でまた五所川原の金木町へと向かった。

 途中から、青森空港から金木町に行くときと同じ道を通ったので、2回目ともなると初めよりはスムーズに運転することができた。斜陽館の手前の川にかかっている赤い橋が見えてくると、金木町に着いた、という感じがする。
 しかし、今日は斜陽館には行かず、別のところを回るつもりだった。1日目と同じ、斜陽館の前にある閑散とした駐車場に車を停め、斜陽館とは別の方向に歩き出した。
 少しだけ坂を登る。このへんのはずだ。私はあたりを注意深く見つつ、スマートフォンの地図アプリで確かめながらそう思った。
 大学の文学の先生たちの情報で、斜陽館の近くに「太宰治疎開の家」という資料館らしき建物があると事前に知っていた。そこは名前通り、太宰が戦時中に妻や子供と共に疎開していた家らしい。
 しばらく歩くと、「太宰治疎開の家『新座敷』」という立て看板が見えた。あと100メートルだと書いてある。看板のとおり、百メートルほど歩くと、ひっそりとした住宅街の中に、同じくひっそりと、「疎開の家」は佇んでいた。
 中にだれかいるのかどうかわからないくらい静かで、引き戸のガラス窓を覗いても、受付には誰もいそうになかった。
 明かりは灯っている。席を外しているだけだろうか。私は緊張しながらも、引き戸を引いた。
 入口の周辺には、小さな受付カウンターと、陶器の作品が飾られていた。それを見ていると、物音で気づいたのか、奥の方から若い男性がやってきた。
「こんにちは。見学の方ですか?」
「はい」
「すみません。席を外しておりまして。それでは見学料500円になります」
 私が言われた通りの金額を払うと、彼は私を奥へと案内してくれた。
「こちらは太宰が戦時中に疎開した家です。元々は太宰の兄、文治さんが結婚した時に新居として建てられた家だったそうです。そのときの家が改装されて、資料館になっています。どうぞ」
 上り口まできて、彼は靴を脱いだ。私もならって靴を脱いでそろえる。
 中に入ると、まず少しひらけた廊下があらわれる。最近になって置かれたのであろう休憩用の机といす、あとは何かのチラシがたくさん置かれていた。
 その奥には和室が2室繋がっていて、手前の一室には違い棚や姿見、床の間があった。一般的な和室だ。2室とも、それぞれ5畳くらいだろうか。
 彼はその手前の一室に入るように案内してくれた。
「この部屋は、太宰の兄が結婚してお嫁さんが家に来た時、太宰がそのお嫁さんを弟とこっそり見に来た部屋です。この鏡に映るお嫁さんを太宰はこの廊下から見て、『大したことはない』と言っているんです。その話が『思い出』に書かれています」

 長兄はそのとし結婚して、祝言の晩に私と弟とはその新しい嫂の部屋へ忍んで行つたが、嫂は部屋の入口を脊にして坐つて髮を結はせてゐた。私は鏡に映つた花嫁のほのじろい笑顏をちらと見るなり、弟をひきずつて逃げ歸つた。そして私は、たいしたもんでねえでば! と力こめて強がりを言つた。藥で赤い私の額のためによけい氣もひけて、尚のことこんな反撥をしたのであつた。

「思い出」

 太宰治全集を買ったとき、1巻目の初めのほうに収録されている作品でもあるので、この「思い出」の内容は読んだ覚えがあり、まさに太宰が生きていた痕跡を感じた。

 彼は話し終わると、また廊下へと案内した。廊下はその鏡がある和室の横を通り、右奥の洋室へとつながっている。
 その廊下には、太宰がこの家で疎開中に書いた作品のリストが飾られていた。
「太宰はこの家でたくさんの作品を執筆しています。リストがこちらです。見覚えのある作品や、読んだことのある作品も多いのではないでしょうか」
 そのリストの中には、「パンドラの匣」や「トカトントン」など、他の有名すぎる作品に比べたら少し知名度は落ちるが、太宰ファンの中ではしっかりと人気のある作品たちが並んでいた。「トカトントン」は、私も好きな作品だ。
「ここで結構書いてるんですね」
「そうなんです。太宰が実際に執筆していた部屋として残っているのは、実はここだけなんです」
 それを知らなかった私は少し驚いた。たしかに、東京のほうは空襲もあったし、街が変わっていくスピードが速すぎる。芥川龍之介も、住んでいた場所などゆかりの場所がほとんど残っていないとファンである友達が嘆いていたことを思い出す。津軽のこの時間の流れ方と、関係者の方たちの努力で残された建物群なんだな、と改めて思った。
 スタッフの彼はさらに奥の洋室へと通してくれた。そこは当時珍しかったであろう、津島家の2階のような華やかな洋室だった。壁に作り付けてあるソファは、日焼けで色落ちしたり劣化したりしているものの、当時はきらびやかな柄だったことが分かる。壁にはちいさな棚のようなものがあり、1枚の写真が飾られていた。
「この写真は、この場所で実際に撮られたものです。どの人が太宰かわかりますか?」
 そこには若かりし頃の太宰と、ほか数名が映っていた。おそらく家族だ。私はどの少年が太宰なのか、すぐに分かった。
「この人ですね」
「そうです。この頃から面影がありますよね。太宰は津軽にいた少年時代、名家の落ちこぼれでした。実家を出てからも左翼活動や女性問題。政治家だった兄、文治は、よそに知られるととてもまずいですよね。太宰は、実家に勘当されます」
 彼は話を続ける。
「そんなときに、縁談があったのがのちに妻となる美知子さんでした。当時の美知子さんからすれば、女性問題や金銭問題がある売れない作家。そんな人から縁談がきたら、あなたならどうしますか?」
 私は少し考えこんだ。太宰がのちに爆発的に売れ、作家としての寿命も長く、死後70年以上経った今もなお読み継がれていると知っているから、私はそんなダメ男でも結婚したいと思える。しかし、当時の美知子さんの立場なら。
「ちょっと……考えますね」
 そもそもお見合いをすることすら躊躇するのではないかと思う。私は苦笑いした。
「そうですよね。しかし美知子さんは、勧められるままにお見合いをしてみることにしました。実際に会ってみると、自分の失敗のことも包み隠さず話してくれる、正直な人だと感じたそうです」
 太宰は世間から文学で名声を浴びた一方、どうしようもないクズだと言われがちだ。実際に問題のある行動をとってきたことは事実だが、このエピソードからも、太宰が真の悪人でなかったことは確かだと思う。きっと名家であることの重圧があったり、自分の心の状態がコントロールできなかったり、彼にもいろんな事情があったのだろう。いや、もしかすると、すべてがそう思わせるパフォーマンスだった可能性もある。
「実家との関係は悪いままで、太宰は長い間実家に帰りませんでした。しかし、太宰の母の容態が悪くなり、いよいよ実家に帰らなければならないとなったとき、それをきっかけに実家の兄たちと修治の関係は少しずつ打ち解けていきます。その話が『故郷』に書かれています。おそるおそる金木に帰ってきて、母と話をします。そして最後に、この離れの和室で、長兄、次兄、太宰が自然と集まるという話です」
 私は、「故郷」を読んだことがなかった。しかし彼の説明は非常に分かりやすく、さっきいた和室で、ぎこちなかった兄弟が集まり、関係が少しずつ修復されていく話なのだということがよくわかった。
 彼は次に、さきほど紹介した和室の奥へと通してくれた。入り口から見て最奥にある2つ目の和室だ。そこには座卓(いわゆるローテーブル)があって、座布団が敷いてあり、それっぽく原稿用紙とペンが置いてあった。
「ここが、太宰が実際に執筆していた部屋です。どうぞ、座ってみてください」
 彼は座るように手で促してくれた。
「え、座っていいんですか?」
「大丈夫です。座ると、急に文章がうまくなるという噂があるんです。今までに、角田光代さんや又吉直樹さんが訪れています」
「えっ? 本当ですか?」
 さらりと彼が言うので、私は少しうろたえてしまった。文学の世界に少しでも触れたことがあるなら誰でも知っている角田光代さん、そして文学に詳しくなくても誰もが知っている又吉直樹さん。その名前を、こんなところで聞くことになるとは思わなかった。又吉直樹さんは太宰ファンであることでも有名だ。ここを訪れているのも、納得のいくことだった。
「本当です。何度も訪れられているんですよ。どうぞ、座ってみてください」
 私は言われるままに、荷物を下ろして座布団に正座をした。
「よかったらお写真撮りますよ」
 彼はそう言ってくれ、私に原稿用紙に向かってペンを持つように言った。
 それは、太宰が実際に、執筆しながら見ていた景色。小さな部屋を見渡してみる。いつもどんなことを考えながら、ここで書いていたんだろうか。
 彼にスマートフォンを渡し、2枚ほど写真を撮ってもらった。
「いい感じですよ。今日から文章が上手くなるかもしれません」
 そうだといいな。これから書く文章がどんどん上手くなって、賞を獲ったら、いつかまたここに挨拶にこよう。私はそう心に決めた。


 疎開の家のスタッフと小説の話を少しして、また来ますと言って建物を出た。次に行きたい場所は決まっていた。津軽鉄道に乗ってみたかったのだ。
 疎開の家の前のゆるやかな坂を登っていくと、坂の頂上のような場所に、小さなその駅は佇んでいる。外観は特別なにか派手な装飾があるわけでもなく、奇抜なデザインでもない。「田舎町の小さな駅」の見本みたいだった。
 駅構内に入ると、結構建物が新しいことに気づいた。最近リニューアルされたのだろうか。真新しい木製の壁だった。あまり人はおらず、一人のおばあさんと、事務所の駅員さんだけだった。
 旅館で休んだときに私は、行き先も決めていた。1駅先の芦野公園駅だ。青森旅行1日目に、太宰の像を見に行った公園。そこまで電車で行って、ぶらぶらと歩きながら金木の斜陽館の駐車場まで戻ってくるという計画だ。
 券売機は普段乗っているJRや近鉄のように自動ではなく、窓口で駅員さんから直接買う。駅員さんに「芦野公園駅までお願いします」と伝えた。私が遠くから来たことがしゃべり方でバレるんだろうな、と思った。愛知県より東や北に行くときは、いつも方言のまましゃべっていいのか、無理してでも標準語を話したほうがいいのか迷ってしまう。私自身、方言に敏感なので、電車に乗っていて他の人の会話を聞いていると、「この人は東京から出張で来たんだな」などと考えてしまうタイプなのだ。
 実は今回、津軽鉄道に乗ろうと決めたのは、青森出身の、大学の先生の影響だった。近代文学を教えている先生で、まだオンラインでしか授業を受けたことがない先生だが、とても知識が豊富で授業もわかりやすく面白い。その先生に、「斜陽館に行くのですが、行っておいたほうがいい場所などありますか?」と聞くと、ゼミの先生と同じく「みんな斜陽館だけ行って満足してしまうので、疎開の家に行ったり、小説の中に出てくる津軽鉄道に乗ったりしてみてはいかがでしょうか」と教えてもらったのだ。
 その先生も青森訛りなので、いつも独特の音楽を感じる。今回は逆に、津軽の人たちに、私がそう思われる立場なのだと思うと、不思議な感じがする。
 切符を購入すると、駅員さんは切符にぱちりと四角い穴をあけてくれた。購入したという証拠なのだろうか。電車に詳しい友達にあとで聞いたところ、「硬券」という分類になるらしい。とても硬い、折り曲げるのに力がいるような厚紙でできていて、それにはぱちりと穴をあけるのが慣例のようだった。
 あまり本数は多くないので、20分ほど待ってようやく電車が来た。壮大な自然の中をまっすぐこちらへ向かってやってくる津軽鉄道の姿は圧巻だった。
 目の前でゆっくり停車して、私は乗り込む。切符のシステムがよくわからず、少しおろおろしながら座席に座ると、それを見ていたのか、女性の車掌のような人がやってきて、
「観光ですか?」
と尋ねてきた。
 そうです、と応えると、その女性はクリアファイルから何やら紙を取り出して渡してくれた。
「このあたりの案内図なので、よかったら使ってください」
 図には、周辺の食事処などの情報がいろいろ書いてあった。
 観光客に対してこんな取り組みもしているのか、と驚いた。その女性はこの駅で勤務終了だったのか、私がお礼を言うとそのまま金木駅に降りて行った。
 電車は、出発すると、ジブリ映画に出てきそうな森の中をまっすぐに抜けていった。もっと太陽が出ていれば最高なのに、と思ったが、曇りでも十分綺麗な景色だった。
 芦野公園駅は駅舎が新しくなっていて、先ほど女性車掌にもらった資料では、古い駅舎でカフェをやっているらしかった。ちょうど時間もお昼になっていたので、そこで昼食をとることにした。
 芦野公園の旧駅舎も、ジブリに出てきそうな風景だ。森の中にぽつんと、白い壁で赤い屋根の洋風の建物が佇んでいる。目の前の広場には、小さな軽自動車、ラパンが停まっていた。
 中に入ると、私が1番のお客さんだったのか、まだ誰もおらず、あわただしさも一切なかった。奥から若い女性の店員さんが出てきて、席へ案内してくれる。
 カレーライスを注文して、あたりを見回すと、古い案内板などがそのままのこっていて風情ある建物だった。ここに太宰も来ていたのだろう。
 カレーライスを食べて、少しだけ太宰治全集を読んでから外へ出た。
 ぶらぶらと、斜陽館の駐車場を目指して歩いた。

 太宰と生きる街、津軽。縁もゆかりもなかった私をここまで惹きつけることのできる、特別な街。私は、生きている間にまたここに来られるのだろうか。
 人間いつ死ぬかわからないから、また絶対に来れるとは言えないけれど、いつかまた来たい。次来るときは、竜飛からの北海道が見たい。

 いつか絶対に行きたい、という夢が、人生半ばところかたぶん前半くらいで終わってしまい、私はなんだかふわふわとした気持だった。嬉しくもあり、寂しくもあり、複雑な気持ちだった。でも、確実に私は、前に進んでいる。
 数年ぶりに霊媒師のKさんに会ったときのことだ。
 Kさんとは、相談をしたいことが別にあって、長話をしても大丈夫な飲食店で待ち合わせをしていた。彼女が先に着いていて、中で座って待っていると連絡があったので、私は店に到着してから客席を探して歩いた。
 すると、数年前と変わらない姿でKさんが座っていた。しかし、彼女の顔は驚きに満ちていた。
「数年前会ったときと全然違う。見違えるように強くなったね」
 Kさんには、私が死の淵から這い上がってきた経緯や現状をまったく話してはいなかった。父の知り合いとはいえ、そういったことを逐一報告するほど間柄が親しいわけではないからだ。なのにKさんは、私が現状を話す前から、一目見るだけでそう言った。
 私は嬉しさがこみあげてきた。自分が必死で生きてきたこの道程に、間違いはなかった、と。
「あのときは本当にのかちゃん、死にそうやった。やのにこんな、見違えるようにすごくなって……何があったん?」
 Kさんは興味津々でそう訊ねた。
「あのときは、機会があったら死のうと思ってたんです。実際に自殺の算段をしたこともあります。でも、そのとき思ったんです。

『死んでもいいなら、なんでもいいやん』って。死んでもいいなら、家が燃えようと、成績が落ちようと、精神病であろうと、社会不適合者であろうと、たとえ路上生活者になろうと、なんでもいいなって。死んでしまえば、社会的な成功者も失敗者も、借金まみれも、浮浪者も、詐欺師も、なんでもいいから。だったら、死ぬ前に自分の楽しいように生きてみようって思ったら、いつの間にか元気になってました」 
 私は自分のまだまだ短い半生を振り返って話した。私の首を絞めていたのは、いつだって理想の自分だった。しっかりと勉強をして、クラスの人気者で、運動もできて、話が面白くて、有名な大学に行って、良い会社に就職して、高い給料で、良い家を建てて、両親に孝行して。だからこそ、家庭に問題が起きて病気になって学校に行けなくなって、県立高校に落ちた時点で自分の人生のスケジュールが大幅に狂ってしまったがために、生きることをあきらめようとしてしまっていたのだ。でもそれは、「太鼓の達人でフルコンボを取れなくなったからプレイをやめる」という発想に近い。「何もそこまでしなくても」「フルコンボじゃなくたって」と思う人が大半だと思う。人生だってそうだ。いくら丁寧に生きて、いくら社会的に成功をおさめても、人は死ぬ。すべてが無になる。それに気づいた途端、私の抱えている問題はすべて問題ではなくなったのだった。
 そう思えるようになったきっかけは、「人間失格」にもあった。女や酒にのめり込み、借金をし、薬物中毒になり、それでも一切は過ぎてゆくと言って生きている主人公。それでも生きていていいんだと、許された気持ちになったあの日。
 Kさんはいとおしそうに笑って、「そうなんよ。それが正しいんよ。ほんまにすごい。よう頑張ったと思う」
 今までの自分を全肯定された気がして、私は涙が出そうだった。「人間失格」に救われたあの日を忘れたくない。今度の6月19日には、墓参りがしたい。

【引用】


青空文庫 https://www.aozora.gr.jp/ より
「思ひ出」太宰治https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/1574_15508.html
「津軽」太宰治 https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/2282_15074.html
「走れメロス」太宰治https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/1567_14913.html
「人間失格」太宰治https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/301_14912.html

 現在出版されている本で現代仮名遣いに置き換えられている作品も、青空文庫版が旧仮名遣いであれば、そのまま旧仮名遣いにした。


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