誰に共感して読むのか。夏目漱石『倫敦消息』
朗読で肝になるのは、
読んでいるあなたは、「誰に共感して」読んでいるのか、という事だと思う。
私は今ロンドンに来ていて、
この場所で読むことに何か意味があるものを読もう!
と思い立ち、
夏目漱石の『倫敦消息』を手に取った。
夏目漱石が、ロンドンから日本へ向けて書いた手紙、
という型の文章である。
手紙文やエッセイ、一人語りなどは、比較的
「誰に共感して読むのか」
が分かりやすい方であると言える。
手紙で言えば、手紙を書いている本人、
『倫敦消息』で言えば夏目漱石。
もしくは、夏目漱石からの手紙を受け取って読んでいる私、
となる。
こんな一文がある。
吾輩は日本におっても交際は嫌いだ。
まして西洋へ来て無弁舌なる英語でもって窮屈なる交際をやるのはもっとも厭いだ。
これは、ロンドンで読まなかったら、
「またまた、漱石先生ともあろうものがそんな事言って(笑)」
と、手紙を受け取った側の視点で、
受け取り手に共感して読んでしまいそうだ。
しかし今、ロンドンでこれを読むと、
「あぁ、分かる…。」
と、手紙の書き手である夏目漱石に共感して読める。
このように、朗読をする時に、
「どの立場から」
「何に対して」
共感を示すのか、ということを考えていくと、
朗読はより、彩り豊かになっていくように思う。
引用した一文が、
夏目漱石流のウィットなのか、
本当に心底からの気持ちだったのかは、
あいにく私は夏目漱石研究家ではないからよく分からない。
が、今の私の心境では、非常に共感出来る一文である事は確かだ。
結局のところ、何が正しい、という絶対的な解釈は、
本人にしか分からない所のように思える。
私が、朗読をする、
ということの一つの意味は、
「私はこの作品はこのように楽しんでいる」
という、楽しみ方の提示にあるように思う。
もちろん、聴く人の中には、
「これは私の解釈と違う」と思う人が出てくるだろう。
本を読むように聴く、という、あまり共感のこもらない朗読を良しとする人もいる。
その方が、聴き手の想像力を喚起し、妨げない。
それもまた事実であると思う。
しかしそれは、私は、
本を読めばいいと思うのだ。
読書ではない、朗読という形。
それはいわば、
「私はこの本をこう楽しんでいるのだけど、あなたはどう?」
という、読み手と聴き手の対話のようなものではないかと思う。
意見は衝突して当たり前。
結局の所、作者本人以外の解釈は、誤解と誤解の衝突でしかないかもしれない。
あ、この作品、こんな読み方も出来るんだ。
そんな風に思ってもらって、
聴き手の作品世界が豊かになるならば、
こんなに幸せな事はないのではないかと思う。
良い声で、綺麗に朗読する。
それは、私でなくとも出来ることだ。
私が、私にしか出来ない朗読、
それは、
「私はこの作品に、このように共感している」
という、楽しみ方の提示ではないだろうか。
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