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【自我の】私が類型診断にハマったワケ【自語り】

まず、結論を言っちゃいます。
私は自分のことについて考えるのが好き、というかそういう行動が定着化しています。

そして、自分の存在証明=自分の思考や感情(意識・自我)の表明・表現をしたいという欲求に類型という共通言語がハマりました。
Xでの類型界隈では日々なんらかの議題が上がっていたりするので、上記のことをしやすいというわけです。

また、自分の精神の動きや人の行動原理に説明がつけられるということで、感情の整理に一役買ってます。

不安定なアイデンティティを確立したいという欲求に、タイプという所属空間があることで安心感がもたらされるというのもあると思います。
(ただし本質的にアイデンティティが確立するわけではないので自認を疑い続けてはいる)

これらのことから類型に興味を持ち、また、学び始めたばかりなので知らない知識がたくさんあり、それを知っていくのが新鮮で面白く感じているというのもあります。
MBTI(公式ではありませんが)の心理機能やソシオニクスの情報要素は面白いシステムで深めがいがあると感じています。
エニアグラムも自己の奥底、根源的な部分を浮上されられる感覚があり、自己カウンセリングな使い方が出来るなと思っています。

サイコソフィア・アマトリカなんかもあって…!類型って生まれ続けていくものなのかなぁと感じますね。

また、界隈では価値観を表明するツイートが多いので、多様な人の内面を覗けることがとても楽しいです。
交流の中で、自分が人からどう見られているのか知ることも刺激になります。

ただ、診断・タイプに囚われすぎると、色々見落としてしまうことが多くなるとも思うので程々の距離感が大事だとはおもいます。

まとめると、自己表現(理解)・他者理解(本質的ではないが)・理論の探求・エンタメ要素等色んな側面から楽しむことが出来るので、沼だな!と思います。
(あと擬人化がすきなので16perの擬人化絵師さんの絵を見て萌えてるというアレもあります)

ここから話が長くなります。(すべて蛇足です)

自分って、なんなんだろう。
漠然とそう思うこと、ありませんか。私はよくあります。

突然生まれた何かが「自分」と呼ばれる乗り物に乗って、数十年という時を流れ続けてきました。

気づいたときには「意識」がありました。いつ発生したのか定かではありません。広義的な自我と呼ばれているものだと思います。
自分を自分たらしめている知覚が統合されて一つの人格と呼ばれるものを形作っている、という感覚です。

「自分」は様々な外部的接触(体験)を得て、様々な反応を起こしました。
それらを私は今までずっと認識してきたはずです。

はずなんです…。果たして、それは本当なのか。という疑問が浮かびました。

記憶、と呼ばれるものは、要らないものを削除していく機能があるようです。そのため、私は昔、自分が何を知覚していたか、あまり思い出せません。

ぼんやりと、自分が続いてきたという確信があるにもかかわらず、なぜそのような確信が持てるのか、と疑う自分もいるのです。
過去、はそれを認識し証明するものがなければ、完全に消えるものなのかもしれません。

自分というものは、核があるのかないのか、判断が付きません。
これまで、意識は様々なものを取り入れ、変容してきた体感があります。
それは「テセウスの船」のようなものの気もするし、「一つの柔らかい球体」が形を変えたり色を変えたりしているような気もします。

人格は記憶から構築されている部分が大きいかもしれません。認知症などで記憶喪失になり、言動などが全く別人になった場合、それは「その人」なのでしょうか。同一性はあるのでしょうか。

端的に言えば、「自分」はどのように形作られているのか知りたい。
そこに疑問を持ち続け固執しているのは、自分の意識の輪郭がぼやけて掴めない感覚があるからです。

それの何が問題なのかといえば、自分は気づかないうちに、無意識のうちに、何もわからないまま、ただ受動的に反応を起こしているだけのまま、時が流れ死んでいくというのが、とても何かを取り逃がしているような気がするからです。

それでいい気がしている自分もいます。それが真理のような気もします。
輪郭なんてあってないようなものだと思います。
そもそも、全ての物体や事柄は繋がっている。それに区切りをつけ認識できるのが意識だ。とどこかで聞いたような気がします。

私は、自分をもっと明瞭に、感じたいと思っています。
意識の強化を望んでいるのでしょうか。強化できるものなのでしょうか。
「生きている実感」が欲しいのかもしれないです。

生きている実感があまりないのは、現実的な問題が原因なのではないか、と思う自分もいます。
能動的に動いた経験不足、自分を説明できる肩書的なものが少ない、生活が安定していない等という原因です。
端的に人生が上手くいっていないという体感です。

言い換えると欲求不満なのかもしれません。
客観的に見て、日本で野垂れ死ぬことはあまりないと思います。ただ、生存的不安もよく感じます。
マズローの欲求階層説がありますが、高次元の欲求が満たされればそれで安心できるのでしょうか。
だれにでも死は訪れます。
どんな高次元的な悩み、直接的に死には繋がらない悩みでも、負の感情は生存に少なからず危機をもたらしているアラームだと感じます。
そのアラームをよく感じとるような個体に生まれてしまったゆえ、
このような状態に陥っているのかもしれません。
弱い個体であるから、危険を回避するためにそのような気質をもって生まれたのかもしれません。
また、原始的な脳機能が強く、遺伝的に、過去、危険が多い状況に置かれていた家系の可能性があります。

また、そのような問題に対して、私はよく、脳内物質や遺伝子に責任を向けます。
能力や性格はそれらに依存していると考えるからです。
そして、その先天的なものが時代や環境(外的要因)に適応するかしないかも問題だと思います。
「人生が上手くいってない」と感じるのも、その感情自体、私で生まれてきたうえ必然的な逃れられない感情なのかもしれないと思ってしまうこともあります。

意識は今起こっていないことも想像、予測することが出来ます。
例えば、私は自分が重篤な不治の病にかかることをとても恐れています。
また、死に際に限らず、精神的にも肉体的にも想像を絶する苦痛を感じるかもしれない可能性に怯えています。
しかし、そんなことなど全く気にならなくなる時もあります。
感情の持続時間には限度があるからです。

(ただ、感情とは違うかもしれませんが、基本的気分には恒常性がある気がします。
私の場合は、常に悩みを見つけ出して、それについて長時間考えてしまったり、負の感情に目を向けることが恒常化されています。
辛いはずなのになぜか安心感を覚えます。そしてそれが日々の基本的なモードです。
生まれつきの脳内物質がその基本的モードを生み出していると思いますが、また習慣みたいなものだと思います。一度沁みついたものはなかなか変えることが難しいですが、その認知に気づき、何回も修正をかければ変えられる余地はあるとは思います。
最初は、頭でわかっていても体がついてこないことが多いと思いますが。)

精神の安寧に近づく方法はは死を受け入れることだと思います。
ただ、果たしてそれが意識的に可能なのかはわかりません。
体は無意識上、生存しようと働くからです。
また、精神も基本的には生存に最適な状態に保とうとする働きがあると思います。
ただ、どうにもならなくなった時、(余命宣告されたときなど)肉体の終焉に精神は追従する気がします。
つまり死を受け入れる精神にはなれるのではと考えます。
覚悟、と言うものかもしれません。

本質的には、感情は原始的なもので、生存確率を上げるための要素、だとは思いますが、現代の環境に追い付いていない気がします(よって精神の逆行性・バグ的なことが起こる)

感情(精神)についてこれから進化がおこりえるのか、それは生命の基礎的な部分で変わらないものなのかは私には推測できません。
昔は処刑や奴隷制度など人権などありませんでした。
しかし、天文学や数学、哲学などは大昔から生み出されてきたものでもあり精神性が高いとも言えます。

(ある人からこんなことを聴きました。「自我」というものは小さいときから存在していた。「時代として許されていたこと」に対してずっとおかしいと疑問をもっていた。その感覚にやっと今時代が追従してきた。自分は未来から来たのかもしれないと。

確かに最近の若い人は精神年齢が高い人が多いと体感的に思います。それが精神の進化といえるのかはわかりません。ただ、時間は不可逆ではなく可逆的にもなりえるのではないかと私は思っています。つまり、未来から現在に精神が送られてきた自我をもった人が生まれてきて、その人たちが次の時代の世界観を築いていくのではないかという仮説です。)

ただ、上記のとおり、人間の精神には簡単にバグが起こりえるという事実があります。
例えばうつ病になり自殺を図るなどです。
私はそのような精神のバグが起こりやすいと自分自身に感じているからこそ、生存的不安を感じやすいのかもしれません。

運命論を受け入れるか、という話にもつながります。
人生ガチャというやつです。
運命は変えられる、抗えるという価値観は希望をもたらしますが、葛藤や不安が付きまといます。
運命を受け入れるというのは、心の平静を保てますが、覚悟と諦めがあると思います。
肯定的な諦めが覚悟なのかもしれないです。なるようにしかならないと現状を認め、現実を受け入れ、視野を広く保ちながら自分らしく振舞えたら最高でしょう。
受動的な諦めでは無気力や自暴自棄に陥ってしまう可能性もあります。

また、自信をコントロールして成功した体験が多いほど、万能感が蓄積され、運命を変えられると感じることが出来るのではと思います。
逆に自信をコントロールできなかったり、成功体験が少ない場合、運命には抗えないという思考になりやすいと思います。

長期的すぎる視点で物事を考えると不確定要素が多すぎてコントロールは難しいと感じるでしょう。
少し先の進みたい方向に行動を誘導しそれを積み重ねていけば、想像が実現しやすく生きやすいのかもしれません。
それでも予測不可能なことは起こります。
自分が望んでいる未来になりえないことに強い不安感を感じてしまうことが多々ありますが、それは精神の状態によります。
予測不可能は希望であると考える時もあります。

成長という言葉があります。出来なかったことが出来るようになるという概念です。精神発達段階を上がったとも言い換えられ人間の精神の成熟にはある程度の段階があり、向上していくものなのかもしれないです。

しかし、進化が善で退化は悪なのでしょうか。そもそも何が成長といえるのでしょうか。それは本当に喜ばしいことなのでしょうか。

人間世界、または今の環境や時代に対して利益をもたらす変化が成長と言われているのではないかと思います。
同じ行動でも不利益をもたらす状況であれば、それは成長とはみなされないと考えます。

よって精神には善も悪も推進も後退もなく、ただ動くものという考えがあります。
私が目指している、意識の強化、自己の明確化、世界をはっきりみたい、自分の在り方をしっかりと持ちたいという意思は、今の状況を打破するための脳内物質が作り出している生存のための必然的に発生している感情なのではないかと思うのです。(生存戦略)

では、どうすればいいか。
まず、私は自己開示が苦手です。性格、今までの経験等から自分の自我に自信がなく、人から否定されることを極端に恐れています。
また、自信の考え方が社会的に受け入れられないものであり、表明すると迫害されるのではないかという恐怖があります。

また、私の思考や言葉が誰かの機嫌を損ねた、傷つけたという不安やトラウマがあります。(不安を感じやすい性質のため)
そのため、私は自分を隠すことや取り繕うことや、自分の自我とは反することなどを多く行ってきました。
自分の意見よりも、人の意見に同調するほうが、うまくいく、また、相手を傷つけることが少なく、それによって自分も傷つかなくて済むと学習していたからです。

その結果なのでしょうか。自我、アイデンティティを自分で把握することが難しくなってしまったのは。
自我を隠していても、自分だけはそれに簡単にアクセスできる気になっていました。しかし、長らく見ないようにしていたそれは、パスワードを忘れてしまったようです。

また、自分の培ってきた価値観、本心を言語化してこなかった結果でもあると思います。
人に自我を伝えるという経験が少ないまま、大人になってしまいました。
しかし、自我が消えたわけではありません。自分の意識上で見えずらくなっているだけです。
無意識上では様々なことが蓄積され沢山の自分を構成しているものがあるのだろうなと思います。
ぼんやり生きてきたと感じるのは、自我を意識上に上らせないまま、無意識の状態にとどめてきたからと考えます。
はっきりと認識できない、言語化できないものがたくさんあるように感じます。

しかし、私は見ないようにしてきた自分の本心が分かってきました。
それは、本当は自分のことを他者に知ってほしい、伝えたい、理解してもらいたい、そして受け入れられたいということです。

ありのままを受け入れてもらうことは傲慢だとも思います。
確かに誰でも、社会(様々な状況)に適応するため、様々な人格を作り出しペルソナを作り(解離性同一性障害とは違います。その考察もしたい)社会に適応してきたと思います。

またある人はいいました。一回収束された自我は、成長するにつれ、また解体していくのではないかと。
自分のアイデンティティにこだわらなくなるのも、一つの精神発達段階なのかもしれません。

自我の確立に固執する時期があるのかもしれないです。大抵、思春期などに自己について問い、アイデンティティを確立する発達段階があると心理学的に言われています。
私はそれが遅く、今、一貫性を持った自我を確立したいとおもっているのかもしれません。

小学校、中学時代は自分という性格にあまり疑問を持ちませんでした。
しかし、自分の好き嫌いがはっきりしていたと思います。自分の世界観が確立したのもそれくらいかもしれないです。
ただ、その時に思っていた自我とは、他人からの評価で決めていたものであり、本質的なものではなかったのかもしれません。

最後に総括を述べます。

私は今、自我を確立したい。本質をつかみたいと思っている時期です。
そしてそれを言語化して、人に伝えたいと思っています。
ただ、自分はシンプルな言葉でわかりやすく説明することが苦手です。
そこに類型の心理機能や情報要素など共通の言語で表現することが
自分にもわかりやすく理解でき、界隈の中ではスムーズに伝わります。
絵を描いて自分の世界観を伝えるのと同様に、言語での自己表現です。
しかし、いつかは類型に頼らなくても、自己考察が出来るようになりたいです。
また、他者のことは本質的にはすべて知りえることはできないと思いますが、様々な価値観を面白がり、交流を広げていきたいとおもっています。

ここまで読んでくれた人、価値観が合うかもしれないですね。
独白に付き合ってくれて本当にありがとうございました。

次からの記事は、ソシオニクスに対しての理解を深めたいため、学習の備忘録、そして自分の見解、初心者にもわかりやすいような説明の記事が書きたいと思っております。

ではまたお会い出来たら光栄でございます!







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