『自転車泥棒』(1948)を観ました
『自転車泥棒』Ladri di Biciclette を観ました。1948年公開、監督ヴィットリオ・デ・シーカ。
イタリア映画はいくつか観たことがあったけど、ネオレアリズモ(Neorealismo)に当たる作品は初めて。というか観終わってからネオレアリズモという潮流のことを知りました。
『自転車泥棒』はタイトル通り自転車泥棒の話。失業者の主人公リッチは、やっと仕事をもらえることになったけど、働くには自転車が必要。自分で調達しなければならないので、ベッドのシーツを質に入れて自転車に換える。希望に満ちた思いでいたが、出勤初日に自転車を盗まれてしまい、警察に頼んでも探してくれない。次の日、友人と息子のブルーノを連れてひたすらに街中を探す。最後には自分が自転車を盗んで捕まって許されて泣く、というストーリー。
なぜもっと楽なほうを選ばないのか
私は、私だったらもっと早く盗んでたなと思った。
だって、警察に行ってもなにもしてくれないし、盗品が出回る市場があるということはそれだけ盗みが多かったということ。現行犯でなければ動いてくれないような警察なら、ひたすら盗まれたものを探すよりも、別の自転車を盗んで逃げたほうが楽に決まってる。そんな社会に生きてちゃんと法を守るなんて、なんて偉いんだろうと思った。
私は一応法学部を出ているので、法の条文の根拠が理にかなっていることはとても大事だと学んだ。当たり前だけど、ある人にとっては有利である人にとっては不利なようにはなっていない。もう具体的なことは覚えていないけど、個別の事例で見たら「これくらい許してもいいじゃん」と思う状況でも、広い視界から見たときにそうしないほうがいいならしてはいけないのだ。世の中の均衡を保てない解釈は暴力になりかねない。
そういう点で、戦後のイタリア社会は法の均衡が壊滅していたのだろう。その中で法を犯さずに生きていくと損をするとでも言ってるみたいだった。
自分の機嫌を自分で取ることの哀しさ
リッチは犯人探しがうまくいかなくて焦っても、ひたすら自分で自分の機嫌をとった。息子のブルーノを勇気付けるため、に見えて自分にも言い聞かせるように、とりあえずおいしいものを食べてまた探そうと言う。身の丈に合わない高級レストランに入る。
冒頭で自転車を調達しなければならなくなったときも、リッチは焦っていた。まるで自分を責めるみたいに、自転車が必要になったことを妻に告げた。
「自分の機嫌は自分で取る」は、人と接する上で心がけるべきことだけど、自分で機嫌を取れない範囲があることをリッチは考えたことがないのだろう。全部自分でどうにかしなければならない世界で生きているから、それ以外の選択肢がない。
だけど、貧困にはいつも自己責任がつきまとうようだ。『フロリダ・プロジェクト』は現代のアメリカだけど、貧困が解決しない根源を同じくしていると感じる。人に助けを求められないことがこんなにも哀しいとは思わなかった。
弱者への自己責任論は、強者の責任放棄の口実でしかない。これは、戦勝国が必ず見なければならない現実だ。その当時の世界の動きがどうだったかは知識がないので書かないけど、今この映画を観る私は、皆が心に余裕を持てる状態で暮らせる世界になってほしいと思った。
群衆に同化していく
最後に、行きは自転車に乗って職場に向かうリッチが、帰りはごった返す人波に紛れて路面電車に乗り込む対比が印象的だった。貧困から抜け出そうとしても結局元の海に戻ってしまうように見えてまた哀しい。ブルーノは路面電車に乗らなかったので、あれが監督の未来への希望だとしたらまだ救いのある映画だったのではないでしょうか。
ネオレアリズモの代表的な映画はほかに、ロッセリーニの『無防備都市』(1945年)、ヴィスコンティの『揺れる大地』(1948年)が挙げられるそうなので、これから観てなにか書くようなことがあればまた書いてみたいと思います。
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