137 授業で心がけていること
先日、仲の良い方たちと集まる忘年会がありました。毎年ここでみなさんと話すことで、自分の立ち位置をはかるような、そんな会です。
授業のことについて、話題になりました。一斉か、協働か。揃えるか、揃えないか。この手の話題はすぐに二項対立を作り、比較しがちです。そうするとわかりやすいこともあり、考えやすいのも事実。
さて。
僕は授業で考えていることは「みんなが参加できること」です。一斉でも、集中できたらOK。協働でも、内容が難しすぎたりこちらの説明が不十分であったりすれば、授業としては機能しません。
説明だけの授業のときは退屈そうにする子もいます。おもしろくないからです。グループワークでしんどそうにしている子もいます。したくないからです。
全員が納得させるのはできないかもしれません。それより、こちらが教えるべきことをきちんと発信できたのかが一番大切です。とは言え、自己満足ではダメです。
以前どこかで述べましたが、小学校や中学校の先生方がこぞってセミナーやメディアなどから実践を磨くべく学ばれています。(高校の先生もですかね)
でも、これが結局は大学入試に収斂されていき、義務教育の成果は日本の入試制度に飲み込まれていくのかと、暗澹たる気持ちになったものです。
そこで、あまり難しいことを考えず、全員がどこかで参加できるパートがある授業をすればいいかと思うようになりました。これは中学で勤めていたときと結局は一緒でした。それしかできないし、それでいいか。
「あの子」とか「元気な子」がいる教室。それはもとより、普通に授業を受けたい子。誰がいてもいいし、いろんな子がいるのが当然。だとすれば、授業のやり方がどうのではなく、その先生がその子とどう向き合うかが単に方法に出るだけの話じゃないかと思うのです。
先の会でいただいた教育系の雑誌ですが、読んでいてしんどくなりました。以前はこういう原稿に耐性があったのに、たぶん自分の中の何かが変わってしまったのだと思います。渦中にいたときもあったのに。
一斉であれ協働であれ、揃う揃わないであれ、授業においてはどこかで必ず参加できる部分があることが僕は大切だと思います。小学校みたいに授業がたちまち学級づくりに直結しにくい高校だからかもしれませんが、寝ている子を起こすことは僕はありません。なんなら指名もほとんどしません。折々に近くの子と答えや意見の確認をするくらい。謝りながら授業をしています(ホントです)
先生であればもっとヒドゥン・カリキュラム(当人が意識しない見えない教育効果のこと)を意識すべきでは。そう思う次第です。両刃の刃でありながら、僕が生徒といるときにもっとも大切にしていることは自己開示なのだと、授業のことを考えていて気が付きました。
普通の人として振る舞い、その人が前で授業をしている。立場上それを先生と言うらしい。これくらいでいい。
最後は人柄です、きっと。
スギモト