「大人になる」ということ
どうかまだ 先に逝かずに 居てほしい 遠くの地ゆえ 会えないままでも
子どもの頃、「友人」とは「どれだけ一緒に長く過ごしているか」がかなり大きな基準だったように思う。友達なら、一緒に遊びに行くし、友達なら一緒に勉強するし、友達なら一緒に登下校するし・・・・みたいな。
大人になってから(学生を卒業してから)は、「友人」の概念が変わった。少し特殊な仕事に就いていた私は、ほぼほぼ友人たちに会わない20年間を過ごした。親とも4年に一回会うか会わないかくらいの生活を送ってきた。そんな日々を過ごしてしまった私だが、それでも幸運にも「友人だ」と思える人が数人いる。振り返れば、どれだけ一緒に遊びに行くかとか(頻度)はあまり関係ないように思う。直接対面で会っていなくても、なんとなく繋がっている安心感を感じられる人というのがいるということを知った。まあ今の時代はネットもあるし。
そして年齢を重ねると、ちらほらと先に逝ってしまった人の情報も耳に入ってくるようになった。自死・事故・病死、いろんな理由があるが、等しく「もう同じように時を刻むことはない」ことを痛感した。
私には、闘病を続けている友人がいる。もう長いこと闘病を続けながら、誠心誠意尽くして仕事を続けていることも知っている。私と同業だった。その人が、若い頃に命の危機を経験し、そこで繋げてもらった命だから、この先の人生は精一杯できることを尽くしたいと語ってくれたことがあった。今でも危機に晒されながらも仕事をしている。4年に1回くらい会って深酒しながらあれこれ話すのが好きだった。同業者として、彼の仕事への向き合い方を肌で感じて、同じ土俵で物事を見ていることがとても誇らしかった。残念ながら私は無職になってしまったが。
他にも闘病のために離職した友人もいる。学生時代、同じ教室に並んでいた数十人はあまり大差ない生活サイクルを送っていた。横並びの生活が当たり前だった。でもそこから10年たち、20年たち・・・・そうすると、本当に千差万別なのだ。働いている人、いない人、家族がいる人、いない人、健康な人、病気を抱えている人。あの頃、同じ教室に並んで座って、同じような生活サイクルを送っていた頃が、随分とまあ遠い。
学生を卒業すると、学校で毎日顔を合わせることもなくなる。色々な地方に散らばれば物理的な距離もできる。それでも、今同じ時を刻んでいて、その人が遠くであろうとも「居る」ということが、私の支えになる。そんな人が、「友人」なんだと思う。
私にとって、「大人になる」ということは、どうしようもなく、誰にというわけでもなく、ただひたすらに無性に祈りたくなること。どうかまだこの世に居てほしい、どうかまだ同じ時を刻んでいてほしい。そして、そう思う相手が増えていくこと。切実さが増していくこと。
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