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サブカルが一軍だった平成初期の話②〜ヤンキーとギャルの間で〜

前回までの、1989年に中1だった私の見た3年生の様子を中心としたお話はこちらで↓

3年のヤンキーだった人たちのヤンキー色はどんどん薄れ1990年3月に卒業していった。
1学年上の2年女は、やはり時代の変化か、怖いヤンキー世代の3年が卒業したからといってヤンキーファッションになることはなかった。スカートを標準より短くしたり、化粧・茶髪・ピアスという校則違反行為の要素はあったと思うが、特別オシャレだったり華やかだったりなわかりやすい一軍グループがいた覚えがない。記憶にある目立つ美人の先輩はヤンキー寄りだった気がするがファッションというより、マインドがヤンキーであり我ら1学年下に対する態度がひどかったので覚えている。
あとこの学年の男の先輩の一軍グループは相変わらずヤンキーぽい人たちが蔓延っていた。旧3年にはBAKUみたいな先輩もいたのに、この学年のバンド系男子はまたBOØWY方向になっていた。(※私はBOØWYは大好きです)これは地域柄かもしれないし、中学生男子の文化は女子より遅れていたということかもしれないし、成長期男子は買ってしまった大きめ変形学ランを無駄にできないのかもしれない。もしくは、男子中学生のヒエラルキーはそもそも強い・怖い人がトップに立ちがちで、ナメられないためには不良っぽくするしかなかったのかもしれない。自分と同学年の男子もしかり、うちの中学では目立つタイプの男子はずっと基本ヤンキーっぽい子達が中心だった。

1990年のメンバーの急死はショックでした。

女子の中での力関係を考えると、一軍である条件として一定レベルの顔の良さに加え「流行に敏感(オシャレ)」「センスの良さ」は欠かせないと思われる。なにをオシャレとするかの価値観は時代や地域、人によっても違うので、この時代地方中学生が得られる最先端流行情報はTVと雑誌が主であり、流行に敏感で見た目に気を遣うことをオシャレというくらいに考えて欲しい。そしてセンスの良さは、ぱっと見の垢抜け具合やバランスの取り方であり、これは感覚的に伝わり自然に一目置かれ、その着こなしや持っている物を真似されるということが起こるものである。流行に敏感でも、取り入れ方が冴えないとフォロワーは生まれない。

そういう意味で1学年上世代には、私たちの学年女子が憧れたり真似したくなるような先輩はいなかったのだが、これは一つ上世代と仲が悪かったからそういう記憶になってるだけかもしれない。顔可愛いな〜と思う先輩はいた。

ということで、続いては1989年〜1990年の中1〜中2の間に私たちが触れた文化・流行について書いていきたい。少女たちは何に興味をもち、何をオシャレと思うようになっていったのか。

中学1〜2年生時代(1989年~1990年・平成元年〜2年)の文化

・TV

三宅裕司のいかすバンド天国(1989年2月〜1990年12月)…通称イカ天。土曜深夜の放送なのでクラスのみんなが見ているというものでもなかったが、ここから生まれたバンドはお茶の間的にヒットしたものも多く、世間的にバンドブームであった。ジッタリン・ジンはクラスの女子中で流行った。

イカ天バンドがヒットし、番組外での露出も増えるとお茶の間化していったが、中1には眠い時間なので、初期の方はとくにこの番組自体を熱心に見てる同級生はそんなにいなかった。

夢で逢えたら(全国ネット化は1989年4月〜1991年11月)…土曜の夜放送のバラエティ番組。イカ天ほど深い時間ではないし土曜の夜なので、「ねるとん紅鯨団」と続けてこれを見てから寝た中学生は多かっただろう。
平均的女子中学生集団だったテニス部女子たちで松っちゃん扮するガララニョロロの真似や清水ミチコ扮するミドリの真似してゲラゲラ笑ってたので、周りみんな見てたと言っても過言ではない。メンバーがバンド演奏をするコーナー「バッハスタジオ」もバンドブームの波に乗っていた。

バッハスタジオで見て好きになるバンドも

天才・たけしの元気が出るテレビ!!(1985年4月〜1996年10月)…1991年に「ダウンタウンのごっつええ感じ」が始まるまでは、日曜20時の覇権番組だった。とくに1990年から行われた高校生制服対抗ダンス甲子園は当時の中学生にも多大な影響を与えた。本当にみんな見てた。LLBROTHERSや山本太郎が有名だが、リアルタイム中高生世代には、いまきた加藤、そうなっちゃう服部、コケコッコー鹿島あたりの名前を出すと、あ〜いたね〜〜となる。鹿島チームが使用していたラモーンズの「Blitzkrieg Bop(電撃バップ)」をここで知って気に入った中学生は多いはず。ダンス甲子園は高校生になったら出たいね〜!などと友達と話していた。コミカルなチームも多かったとはいえ、ダンスする高校生にオシャレさを感じていたのは確かだ。
勉強して東大に入ろうね会の第1期もこの時期だ。

とんねるずのみなさんのおかげです。(1988年10月〜1990年4月[第1期])…昭和の終わりに、昭和時代を代表する音楽番組「ザ・ベストテン」の裏である木曜21:00にレギュラー放送開始。バンドブームによりベストテンの魅力が落ちている中、若者はみんなこの番組に流れていった。ノリ子の学園コントに出てくる宮沢りえのキュートな美少女っぷりは中学生にも響きまくっていた。あの頃の宮沢りえの肌の白さと髪の自然な茶色さとサラサラさは憧れであり、ヤンキー系ではない垢抜け茶髪の見本となった。女バスに宮沢りえ的な肌も髪も色素薄い系でサラッサラの髪質の女子がいて羨ましがられていた。髪がサラサーティ(1988年という我ら世代が初潮の時期に発売、CMもやっていた)とか言われ先輩に目をつけられることもあった気がする。そしてその子がヘアマニキュアをいれてより綺麗に髪色を活かしていたのに影響を受け、校則違反にならず光の加減で茶髪になるいい感じのものとして続々と取り入れてみる者が現れるも、ろくに手入れもしてない黒髪に施してもあまり効果はなかった。
みなさんのおかげですに話を戻すと、仮面ノリダーはじめ様々なキャラクターを真似する中学生の姿があった。

ウッチャンナンチャンの誰かがやらねば!(1990年4月〜9月)…上記みなさんのおかげですが一旦終わっていた時期にやっていた番組。10月からは『やるならやらねば!』に番組名と時間変更。ナンチャン扮する原始ギャルがクラスメイトのお母さん(よくヒョウ柄を着ていた)にそっくりで話題になった。そういえばあまり気にしてなかったけど当時30代のお母さん界隈にはちょいちょいヤンキー系というかスナック系?が存在してたな。

ほか、邦ちゃんのやまだかつてないテレビ(1989年10月〜1992年3月)、加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ(1986年1月〜1992年3月)、ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!(1989年10月〜)など、バラエティ番組が大充実していた。とんねるずのみなさんはクラスでもかなりの多数が見ていたしメジャー度は最も高かったが、とんねるずは我らが小学生の時から第一線で活躍していたし、「ねるとん」も中学生も見てはいたが対象としては上の世代向けであったので、私の世代はダウンタウンとウンナンの登場に強く影響を受けた人が多いと思う。また、中2の頃にカトケンを好んで真似してる男子はちょっと幼い扱いをうけていた記憶もある。今思うと単に笑いの好みが違うだけの話だが、80年代にドリフからひょうきん族へと若者の好みが変わっていったように、その頃の中学生にとってはカトケンよりDT&ウンナンが新しく面白いと感じたのだ。
また、地方ローカルで中高生向け音楽&バラエティ番組が放送されており、バンドブームに乗ってゲストや内容はバンド色が強く、かなりの人気を誇っていた。この番組はとくに女子の見てる率が高く、この影響もあってか我が地元はバンド文化がほか地方よりやや高いような気がする。私は完全にその影響下にある。

89~90年のドラマで「みんなが見ていてクラスで流行った!」とまで言えるようなものが思い出せない。「勝手にしやがれヘイ!ブラザー」(1989年10月〜1990年3月)にしてもあぶ刑事に比べると弱い。宮沢りえ主演の「いつも誰かに恋してるッ」(1990年1月〜3月)も、なんとかして流行らそうとしていた「ぶっとび〜」というセリフがびっくりするくらい女子中学生には浸透しなかった思い出しかない。後世で「ぶっとび〜」が流行語になったと捏造されている場合もあるがウソです。当時の若者は真似してません。
浅野温子&三上博史の「世界で一番君が好き!」(1990年1月〜3月)も、主題歌のリンドバーグの「今すぐKiss Me」は中学生にも流行ったが、ドラマとしては見てる子は見てたんだろうが中学生にウケるドラマというわけではなかっただろうし、中1で浅野温子に憧れて真似する子はまだいなかったように思う。この頃全盛期のトレンディドラマの対象は基本20~34歳女性のF1層である。

浅野温子よりも、この頃のリンドバーグVo.渡瀬マキのファッションスタイルのほうが
女子中学生に影響を与えた

1989年牧瀬里穂のJR東海クリスマスエキスプレスのCMは中学生の心をも掴んでいて、男女ともに牧瀬里穂可愛い〜!と人気が高かった。
(その数年後、ヒューヒューだよというおかしなセリフや、松ちゃんが可愛くないと揶揄ったことでイメージが変わっていくことになってしまう)
ちなみに前年1988年の深津絵里verも非常に可愛く、その頃深津絵里は資生堂のシピという商品のイメージガールを務めていて、私はその商品が初めて自分で買った(正確には友達に安く譲ってもらった)スキンケア用品なので、印象深いしその頃からずっと深津絵里は好きである。

今見てもめちゃくちゃお洒落でかわいいな

・雑誌等

部数的に当時の少女むけ漫画だと、小6〜中1で「りぼん」を卒業して「別冊マーガレット」に移行するのが王道だったと思う。ファッション系だと「ピチレモン」から「レモン」か。
あとは各々の好みによって、POTATODuetといったアイドル雑誌、WHAT's IN?パチロクといった音楽雑誌、占い・おまじない誌のMy Birthday私の部屋などのインテリア雑誌、髪型を変えたい時には明星ヘアカタログを買ってその切り抜きを美容院に持って行ったり…。
漫画は雑誌というより過去作含め作品ごとに流行る感じ。
中1の時、折原みと先生のティーンズハート作品と銀色夏生「このワガママな僕たちを」(1988年12月発売)がクラスで爆発的に流行ったのもすごく記憶にある。

だが、決まった雑誌を何冊も毎号定期購読してるのは多数派ではなかったように思う。なんせ地方公立中学なのでみんなお小遣いもたいしてもらってないし、姉妹や友達どうしで分担して買って貸し借りしたり、裕福めな子の家やお店やってる子の家で読んだり。私も親に定期購読してもらっている雑誌もあったが、本屋の店頭で好きな感じの表紙だったり気になる記事がある雑誌をお小遣いで1冊買ってみて、その1冊を読み込んでしばらく捨てずに保存するというスタイルだった。

なので、雑誌には情報量を求めがちであった。どれだけ読み込んで楽しめるかのコスパだ。少女漫画雑誌もやたら分厚いオール読み切り増刊号が出ていた。
そして中1〜2年女子はファッションとともに性への興味がなかなかに高いものであり、「エルティーン」「おちゃっぴー」「ポップティーン」辺りのごちゃごちゃした誌面に記事が充実しているエロめのティーン誌を誰かが仕入れてどこからか回ってきて、このロストバージン体験記がすごい、と回し読みしていた。今考えると体験記も大人のライターが適当に書いたものだったかもしれないが、当時としては生々しく感じ鼻息荒く読んでいた。

中でも「ポップティーン」はエロだけでなく、バンド要素にヤンキー要素、さらにオカルト要素もあってその頃の中学生女子の気分に合うものであった。ポップティーンはバブル世代にとってはギャルズライフとともに1984年以前のエロに特化していた時代、コギャル世代にとっては90年代半ばのギャル雑誌に転換してからのイメージが強いせいか、この期間のことはあまり語られない。

当時どれくらい売れていたのかはよくわからないが、この雑誌でも力を入れていた人面犬の記事が社会現象にまでなったことを思うとそれなりに影響力はあったのだろうし、地方女子中学生が普通に書店で買って読めるくらいにはメジャーな雑誌だった。
そしてこの頃のポップティーンは後に「クイック・ジャパン」を創刊する赤田祐一氏が編集部におり、アウトロー系ジャーナリストで活躍する石丸元章氏がライターで参加していた。
80年代ポップカルチャー代表雑誌「宝島」全盛期に女子小学生だったため、その文化は身近なものではなかったが、その流れを汲みつつ、さらに90年代サブカルチャーに繋がるポイントに、我ら世代の女子中学生は触れていたといえるのではないだろうか。

「ポップティーン」1990年10月号

当初宝島の女の子版として1989年に創刊された「CUTiE」だが、創刊当初は中1女子にはかなりハードルの高い雑誌だった。コスパの良い役に立つ情報量の多いものを求める私たちにとって、買えない服・真似できない格好・ビジュアル重視で読むより見る雑誌というのはなかなか手が出ない。私が初めて手に取ったのも1990年か1991年だった。

次回、引き続き中1〜中3で触れた文化と影響についてもう少し書いていきたい!




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