サブカルが一軍だった平成初期の話①〜ヤンキーとギャルの間で〜
はじめに
以前noteに書いた「90年代後半のサブカル(チャー)漫画界隈の話」でも触れたよう、「サブカル」とは時代によっても異なるし、各々が持つ価値観や基準によりカテゴライズされることもあり、さらに同じ人間でもその対象に触れる時の年齢だったりタイミングによって変わってくるような、非常に流動的で曖昧模糊としたものだと思っている。
これから書いていくことは私自身が当時経験した記憶にあることをベースにまとめていく。ただし当時の自分の確かな記録(日記等)ばかりを参照しているわけでもないので、勘違いやもっと後世の記憶との混濁・改ざん・捏造・参照情報(wiki)の誤りなどもあるかと思う。
インターネットもない時代のことであり、「当時の女子中高生はみんなこうだった!」ということではなく、世間的に一般的ではなかったことも多々あるだろうが、自分自身が見た景色はこうだった、ということを書きとめておきたい。
とくに特殊な環境にいたわけでもない、平成初期(平成元年〜平成七年・1989年〜1995年)に単なる普通の地方公立中学・高校生だった一人の女子の話として聞いていただければ。
中学1年生時代(1989年・平成元年)
私が入学した1989年4月頃、3年生の中でも学校で目立つ人たちの中に、顔がいい人とスポーツができる人というどの時代も普遍なタイプに加え、ヤンキー系が男女ともにまだまだいた。1989年1~3月放映のドラマ『はいすくーる落書き』での的場浩司は人気であり、この頃不良っぽい男子の人気は世間的に普通に高かったと思う。かつ、このドラマの主題歌ザ・ブルーハーツの「TRAIN-TRAIN」大ヒットでブルハの人気も高まり、1989年2月にイカ天が始まってすでに世はバンドブームでもあり、この頃はバンド≒ロック≒不良なイメージもあった。
以前こちら↓のバンドTの話でも書いたが、
当時バンドTは、うちの地元では変形学生服や龍の絵柄がついたエチケットブラシが売っているヤンキー御用達のお店で売っていた。また、先輩でバンド(1988年の解散後も、まだまだBOØWYのコピーしがち)を組んで文化祭で披露してた人たちはヤンキーめな方々だった。
私が入学した頃の3年女ヤンキーの主流は「嵐の素顔」の頃の工藤静香のようなヘアスタイルでまだ制服のスカートも長めだった気がするが、昭和スケバンのような極端なロンスカや派手な髪色やパーマの人はいなかった。女子の制服はブレザーでプリーツスカートだったのだが、変形スカートはヒダ数が多くなっていて、ヤンキーはそのスカートを履いていた。なぜヒダ数が多いのがワルの証なのか今となってはわからない。
ヤンキーに限らず、顔まわりの髪をカーラーで外巻きにして上部はクルンと、横は流してケープで固めたヘアスタイルが流行っていて、華やかな3年はみんなそんな髪型であり、毛の流れが美しいほどイケていた。ポニーテールなどのまとめ髪でも後れ毛重視で顔の周りはふわふわさせる。その上でヤンキーは髪色が明るめ(オキシドールで脱色)で化粧をしていてピアスの穴(氷で冷やして布団針であけたもの)があいてる感じ。
通学カバンはすでに革製手提げカバンではなくボストンバッグ型に変わっていたので、鞄つぶし等のヤンキーらしさはそこに見られなかった。ただ数年前までは革製だったので、友達の兄ちゃんのペラッペラの学生鞄は見たことがある。
3年男ヤンキーも、昭和的なツッパリヘアや剃り込みはさすがにいなくて、主流は…あの髪型の名前はなんていうんだ?リーゼントっていうほどリーゼントじゃないけど、ジェルとかで前髪あげて一部だけ垂らすやつ。
3年ヤンキー男は↑この宮本(右の男)みたいな髪型が多かった。ギャッツビー的なジェルで固め、前髪ナシにはせずに少し垂らす。もしくは片側だけあげて片側は下ろす。こちらもヤンキーまではいかなくても目立つ先輩は、整髪料使って立たせたりドライヤーを使ってふわっと流すのが流行っていた。茶髪(もちろんオキシドールを霧吹きにいれてドライヤーで乾かしながら何度も吹きかけるやり方で脱色)もいた。
制服が学ランだったので、男ヤンキーはベンクーガーなどの変形制服は着ていたが、長ランにドカンや極端なボンタンといった昭和スタイルはおらず、そこまでは短くない短ランにやや裾がすぼまったシルエットのボンタン(バナナというのもあった)履いて、色がついた靴下履いて(校則では白のみ)、上履きのかかとを踏みつぶしていた。エナメルのベルトもしていたような気がするが、それは後々植え付けられたイメージかもしれない。穴のない安い布製のバックルベルトだった気もする。カラーはもちろんつけない。詰襟が標準より短いローカラーが流行っていたように思う。ズボンはタックの数がどうとかいうのもあった。とにかく標準・校則通りじゃない服装をする反抗心を表すことが大事だったのだろうか。
3年生の女ヤンキー達は大人っぽくて美人で怖いけど優しかったし(3年は1年に優しいあるある)、その頃『瞬きもせず』を連載していた紡木たくの前作『ホットロード』がクラスで流行ったり、前述した的場浩司人気など、入学当初はまだ不良がイケてる風潮が残っていたので、ヤンキー的なものに憧れていた1年は多かったように思う。というか、身近にいる大人っぽくて綺麗な女性の見本がヤンキー系だったし、目立ってかっこいい男の先輩もヤンキー系だった。3年の中で一軍グループは確実にヤンキー系の先輩方だった。一軍とは華やかで、体育祭や文化祭でも活躍して目立つグループである。つまりヤンキーといっても校内の鼻つまみ者的な不良ではない。先生にもよく怒られつつもなんだかんだ仲良くしてて卒業時には人一倍泣くような人たち。
ギャル系の元であろうサーファー系もこの時期イケてる若者代表だったのだろうが(サーファーが「グラッチェグラッチェ」と言っていたスーパーカップのCMも1989年)、サーフィンやるような海が身近な地域でもないのでいなかった。時代的にナゴムギャル的な先輩ももしかしたらいたのかもしれないが、目立つような一軍にはいなかった。美人ヤンキー先輩方は肌も白くて赤いリップが似合うような人たちだった。
が、1989年の間にその3年ヤンキーたちのスカートは短くなっていったし、工藤静香的ヘアスタイルからキョンキョンみたいなショートボブにしたヤンキーもいた。
目立つ3年男子の整髪料を使ったヘアスタイルもヤンキーというよりどんどんバンド寄りの風貌になっていっていた。
キョンキョンの「学園天国」しかり、ゴーバンズやジッタリン・ジンが地方の中学生にまで人気がでるほど、平成元年はポップでキュートな印象のものがお茶の間に出てきていた。
ただ、いくらスカートを短くしたり、バンド系に寄っていてもこの頃の3年は、1年の時の3年がまだまだヤンキー文化が強い時代だったし、培われてきたマインド自体がヤンキーであり、キョンキョンみたいなボブにしても腕には根性焼きや安全ピンで好きな男の名前を彫った跡が残ってるような人たちだったし、初体験エピソードもなかなかハードなものを抱えていたりした。
周りがスカートを短くしていく中、ロングスカートと脱色ヘアに色をいれてレイヤーのカールにも気合い入りまくってるヤンキースタイルを卒業までやめなかった先輩がひとりいたが、今思うと本人なりの強い美学があったんだろうなと思う。どこかのレディースに所属していたのかもしれない。1989年末にはかなり浮いている存在だった。
ファッションでヤンキー風がモテるからやってたような人は流行に乗ってバンド風になったりパンク的な要素を取り入れていたが、ヤンキーマインドの男はずっとヤンキーっぽいカッコをしてた印象。というか標準から逸脱した格好をしようと思うと学ランだとヤンキー風にならざるをえないのかも。
今思い出したけど、1989年時点で腰パンやってる3年がいて制服も体操服も常軌を逸した位置までずり下げて履いていた。おそらくヒップホップ文化からきたものじゃなくて、「人と違うカッコがしたい」から生み出されたものだったのだろう。だらしなさ=ワルさ、って価値観をもつのはなんとなくわかる。
さてそんな中、1989年の我ら中1ガールズはどんなだったかというと、ただただおぼこいままであった。というか、中1女子にとって親や教師よりも怖く、校則よりも守らなければいけないもの、それは部活の2年であり2年が決めた決まりだ。
制服のスカート丈を長くするのも短くするのも、靴下や靴や通学バッグに個性を出すのもご法度であり、茶髪なんてしようものなら呼び出される。とにかく目立つようなことはしてはならない。校則では許されている夏の開襟シャツも1年のうちはダメだった気がする。
私は軟式テニス部だったのだが、1年はガットの色もグリップテープの色も変えてはいけなかった。
そういった風土もあり、1年生時代は男女ともに小学生の延長のような子供っぽい雰囲気のままの子が多かった。それでも夏休み頃、友達が先輩にバレないよう髪の内側の一部だけ脱色(今思うとインナーメッシュ)してたの覚えてる。気が強いヤンキー気質な言動のガラの悪い子は当然いたけど、校内での見た目的には先輩の統治下で抑えられていたと思う。(※ただし3年の有力ヤンキーと付き合っている顔がいい1年女は除く。あれは治外法権)
学校外でも、地元の祭りで調子にのったカッコしているところを先輩に見つかりシメられる、という話はあった気がする。
私服では、バンド文化とヤンキー文化がニアイコールな時期だったのと中二病期もあり、私自身も例のヤンキー御用達の店でバンドTを買うなど、不良っぽいテイストを好んでいた時期は確かにあった。バドワイザーのTシャツや雑貨なども、お酒=不良=カッコイイ!みたいな感じで人気があったのもこの時代じゃなかろうか。
土地柄、車やバイクが好きな人も多く中学卒業後は進学せず働く人もそれなりにいて、同級生の兄姉や近所や親戚にヤンキー文化が強かった時代を色濃く残すヤンチャな風貌の人たちは身近にいた。そんな兄姉をもつ友達の家でチャンプロード(暴走族雑誌)やエルティーン(体験談がエロい)を読んだりもしていた。カッティングシートを切った思い出もある。バイクも持ってないのにどこに貼ったのかは覚えてないが、確か「Ø」を作った。
こういった昭和のヤンキー文化の残り香をリアルに嗅いでいたギリギリの世代だったのか、地域や環境によるところは大きいだろうが、東京出身の同い年にこの辺りの話を共有できたことはない。
そんな少しヤンキー・不良文化に憧れがある時期がありつつも、平成になって時代は急速に変わっていきヤンキーっぽい先輩も趣旨替えしていく中、我ら1年女子も憧れの方向がヤンキーから離れていった。
先にも述べたよう、そもそも1年は先輩の目もあり標準・校則から外れた格好はできないが、自分の学年でのヒエラルキー最上位(当時そんな言葉は無かったが)グループがヤンキー系だった覚えはない。
そして私の学年のヒエラルキー最上位グループは女バス界隈であった。身長高めで気が強め、公立中の中では家も裕福めな、かつ強い姉がいる子達が揃っていた。そんな中でも顔とセンスがいい子が自然影響力の強い立ち位置になる。
ちなみに私が所属していた軟式テニス部は運動部の中で最大派閥であり、中学生女子として全てが平均的な集団であった。
次回、1989年〜1990年のヤンキー文化からキュートでポップなものを好んで行くことになる上で影響を受けたものと、当時の女子中学生の様子を書いていきたい。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?