犬がお伊勢参りに来た(伊勢神宮と犬 その2)
江戸時代を通じて全国からの参詣者が伊勢神宮に来るようになり、その中には犬や牛も参宮に来たことが記録に残っています。第1回目では18世紀末の記録に残る参宮犬(おかげ犬)について書きましたが、その約60年後、文政13年に(1830年)に出版された御陰参宮文政神異記に書かれた参宮犬を紹介します。
前年に伊勢神宮の式年遷宮があった文政13年は、前回の明和8年(1771年)のお蔭参りからほぼ60年後に当たっていました。江戸時代を通じて、全国から参詣者が殺到し、一種の無秩序、パニック状況となる、いわゆる「おかげ参り」がたびたび発生しましたが、これは「60年おきに起こる」ことが当時の暗黙の常識となっていたようで、人々の間に「今年はお蔭参りが起こるのではないか」という期待感が高まっていた世情だったようです。
そのような中、3月に阿波国(徳島県)の子どもたちの抜け参り、つまり、親や主人に無断で、着の身着のまま、無一文で出かけた伊勢参宮、が起こったことを契機として、伊勢神宮へ群参する人々が各地から続々と押し寄せ、8月末までの数ヶ月間にその数は何と約500万人に達しました。
その様子を克明に記録したのが「御陰参宮文政神異記」の著者である山田(現在の伊勢市)在住の著述家、箕輪在六でした。
ちなみに、この500万人は決して大げさではありません。徒歩でやってきた参詣者は、必ず宮川で渡し舟に乗って山田の街に入るのですが、この乗船客数の記録はかなり正確なものだったと考えられているからです。
「御陰参宮文政神異記」に書かれた参宮犬は以下のようなものでした。
阿波国徳島のおさんといえる小ぶりなる犬、頸に銭と金子をくくり着来る。古市町(現在の伊勢市古市町)大和屋長兵衛、鳥目(一文銭のこと)を金子に替え、これを軽くして、町送りにして、滞りなく御参詣いたさせ、道中の駅駅への頼み状を附け遣しぬ。このおさん犬無事帰国せしよし。
さらに、これとほぼ同時代の寛政年間(1789年~1800年)に、奥州須賀川宿(福島県須賀川市)から伊勢参宮に遣わされ、無事帰郷した「シロ」という犬の話も伝わっています。
須賀川市にある十念寺というお寺に、背中にお札を背負った犬の石像が乗った「犬塚」という石碑があります。これが須賀川で代々庄屋を務めていた市原綱稠(つなしげ)の飼い犬「シロ」です。綱稠は伊勢神宮への崇敬が厚く、内宮に毎年参宮していたほどの人物でしたが、病を得て長旅ができなくなったことから、シロの背中に「この犬は人の言葉がわかる賢い犬なので、この手紙を読んだ親切な方はどうか伊勢参宮を手伝ってあげてください」とという趣旨の手紙を路銀と共に括り付けて放しました。
それから、市原家の人々は毎日お灯明を上げてシロの無事を祈っていましたが、2か月ほど後に無事、お札を背負って帰ってきたのでした。なんと片道600kmもある長旅です。人々の喜びようはなかったことでしょう。
シロはこの3年後に死んでしまいましたが、綱稠は石像をつくって十念寺に葬ったとのことです。(残念ながら伊勢側にはこの記録は残っていないようです。)
では、このように、決して少なくない犬が伊勢参宮できた理由は何だったのでしょうか。ジャーナリストの仁科邦男さんが書いた「犬の伊勢参り」(平凡社新書)によると、伊勢参宮は多くの場合、伊勢講のように集団で旅行するものだったことや、犬もシロのように特定の飼い主に飼われていた例はむしろ少数で、多くは「里犬」などと呼ばれる、その土地や村に群れで居ついた、飼い主もいない野良犬であったことが影響しているようです。
こうした犬はエサをもらえることで知らない人に懐いてしまい、一緒に付いて行ったりすることもよくあったようで、「おさん」のように自分をかわいがってくれる阿波の子供たちが伊勢神宮へ抜け参りしたのに、ただ単に付いてきただけ、というのが真相だったのではないか、というわけです。
身もふたもない話ですが、案外、そのあたりが本当のところだったのではないでしょうか。もちろん、犬の能力にもよるでしょうし、周囲の人々の助けにも拠ったでしょう。仁科さんのこの見立てには説得性を感じます。
ただし、です。犬の伊勢参りの話はこれで終わりではありません。
江戸時代の犬はほとんどが里犬(野良犬)であったこと、そして前回も書いたように、(実態はともかく、建前として)伊勢神宮は犬を穢れた動物として境内に入ることを固く禁じていたことは、まったく相反することです。
つまり、伊勢神宮側では、神宮から犬を追い払うことにかなりの労力を割いたのであり、定期的に「犬狩り」さえを行っていたことが史実として記録に残っています。
そこに現れたのが、生類憐みの令を発布し、犬の虐待を厳禁した将軍、徳川綱吉です。徳川幕府は古来の伝統であった伊勢神宮の犬狩りを、どう禁止しようとしたのでしょうか。
(つづく)
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