見出し画像

度会神道発祥の地「仙宮院」に空海も最澄も来ていた? 

<外宮は内宮よりも劣っている?>
伊勢神宮にはいまだに明快には説明できない、さまざまな事象が残ります。例えば、内宮と外宮の関係。
伊勢神宮の公式見解は「両宮は決して同格ではなく、皇大神宮(内宮)が最も尊いお宮で神宮の中心です。」とあります。
しかし内宮、外宮とも正宮の大きさはほぼ同規模で、しかも内宮は偶数と水平の「陰」、外宮は奇数と垂直の「陽」を表し、両宮で陰陽道の世界観を象徴していることは明らかです。
日本書紀を原理的に解釈した内宮の優位、外宮の劣位という考え方は、古代にはともかく、時代が下ると疑問を持つ人が現れるようになったのは歴史の必然と言えるでしょう。
こうした内宮と外宮は同格であり、一心同体である(二宮一光)という考え方を体系化したのが13世紀の鎌倉時代末期に現れた「伊勢神道」という教理です。外宮の世襲神主であった度会(わたらい)一族が唱えたので「度会神道」とも呼ばれます。

<度会神道とは>
一方で、内宮と外宮が同格であるという論が登場した理由は、こうとも考えられます。
古来から皇室の宗廟であった伊勢神宮は尊貴至高の存在であり、その運営は税によって行われていました。しかし奈良時代になると皇室は深く仏教を崇敬し、神祇の存在感は相対的に低下していきます。
平安時代となり、伊勢神宮の経済基盤だった律令制が崩壊すると、伊勢神宮は自らが荘園領主となって、荘園からの収入で経営を行っていく必要が生まれます。これは、東大寺や興福寺、延暦寺、石清水八幡宮、松尾大社など全国のどの神社仏閣でも事情は同じでしたから、熾烈な荘園獲得競争が各地で展開されることになりました。
多くの荘園を集めるためには、人々に深い神徳を説き、崇敬を集める必要がありました。それぞれが世襲神主によっていた伊勢神宮の内宮も外宮も、荘園獲得するためには、いかに内宮(外宮)は優れているかを人々に知らしめる必要があったのです。度会神道が外宮の度会一族から発祥したのも、こうした中世初期の政治経済体制の大変革が理由だったろうと考えられています。いわば外宮が内宮への巻き返しを図ったというのが通説です。

<仙宮院秘文とは>
前置きが長くなりました。
この度会神道にきわめて大きな影響を与えたのが、鎌倉時代末期に書かれた「仙宮院秘文」という文献です。なんだかオカルトめいていますが、れっきとした歴史学上の史料の名前です。天台座主であった慈覚大師・円仁が著したとされ、古代からの原理主義的な内宮優越論を覆す、内宮と外宮の一体(同格、対等)についてを、仏教的な解釈で説明した文書と言われます。(もちろん、自分も原文を呼んだことはありませんが。)
この仙宮院秘文が執筆されたのは、志摩国吉津、現在の三重県度会郡南伊勢町河内にあった密教の寺院・仙宮院でした。ここ吉津は平安時代から多くの御厨(伊勢神宮の荘園)があった場所です。伊勢神宮からは直線距離で40km近く離れている山と海に囲まれた場所ですが、仙宮院はその中心にあって、神・儒・仏の典籍の研究が盛んに行われていたと考えられています。
伊勢神宮の研究をなぜ仏教寺院が行っていたのかは、以前も私のNoteに書きましたので、それをご覧いただきたいのですが、末法思想が広まった平安時代中期以降、来世への救いを求めた仏教信仰が急速に民衆にまで広まっていく中で、従来の神祇信仰と仏教とがどのような関係にあるのかを深く考究する時代の要請があったのでした。

<仙宮神社と仙宮院>
現在、仙宮院の跡地付近には、仙宮神社が残ります。

猿田彦神を主祭神とした旧郷社で、江戸時代には紀州徳川家の崇敬も受けたという神社です。鳥居前には由緒書きの大きな看板もあります。

仙宮院は仙宮神社の神宮寺で、この鳥居前の広場にあったと推定されています。賀茂御祖神社宮司の鈴木義一氏が昭和37年に著わした「仙宮院秘文」の研究によれば、仙宮院秘文の内容は次のようなものです。
・仙宮院は文武天皇の大宝4年(704)に役行者が開基した。
・以来、弘法太師・空海や、伝教大師・最澄、慈覚大師・円仁らが院主を務め、弘仁4年(814)に最澄が蓮華会を、承和2年(835)に空海が大仁王会を、そして嘉祥2年(849)には円仁が鎮守会をそれぞれ行った。
・そもそも世界は、天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)と大日孁貴(おおひるめのむち)の2つの神が支配している。天御中主神は豊受大御神として外宮に祀られている。大日孁貴は内宮にご鎮座している。
・外宮の天御中主神(豊受大御神)は天神、大日孁貴(天照大御神)は地神であり、この二つで一つとなる。

このような、二宮一光の考え方を度会家も取り入れ、度会家行らによって度会神道は一つの高みに達することになります。
鈴木氏によれば、度会神道とは従来よく言われたように外宮の権勢を優位にするために捏造された説なのではなく、むしろ仏教者側からの伊勢神宮や神話、神器への解釈であり、それには熊野修験も大きく影響していると説かれます。この「内宮外宮を一体と見る」考え方は、のちに曼荼羅の金剛界を外宮、胎蔵界を内宮と見立てる両部神道にもつながってゆくそうです。
あくまでも自分の個人的な感想ですが、現在のように記紀を儒教的に解釈する垂加神道流の神学ではなく、12世紀当時は魂の救済や世の平和繁栄には神仏が不可欠と信じていた神道者、仏教者が真剣に古典を読み込み、論を戦わせて編み出したこうした神仏習合論には大きく心が惹かれます。

<仙宮院の今>
しかし惜しむらくは、仙宮院はその後徐々に衰退してしまい、宝永4年(1707)10月4日の大津波で伽藍が流失してしまったことです。その後再建されたものの、安政元年(1854)11月4日の大津波で再び堂宇は流出し、その後は再建されることはなく、貴重な文献や史料も多くが失われてしまったそうです。

仙宮院の大日堂にあったとされる大日如来像は、その後、近くの奈津観音堂に移され、今も大切にお参りされているとのことです。奈津観音堂の前にはおそらく13世紀と変わらない、穏やかな海が広がっていました。

せっかく伊勢に来られたら、ぜひこうしたあまり有名ではないけど歴史のある場所にも訪れていただければと思います。


いいなと思ったら応援しよう!